其の歪みし者に触れるな ◆ ◆ ◆ 絶界雲上域の北西に位置する、暗国ノ殿と呼ばれている黒い建物。 辺境伯が開けたという、金鹿図書館・開かずの間の先にあった建物である。 外から見ればまるで廃墟のように見えるものの、実際は少し違ったようだった。 どういうわけか毎日用意されているパンと温かいスープ、恐らく数十年以上前から稼働し続けているであろう、数々の機械。 そこが何者かによって整備されている事は、なんとなく理解できた。 幸か不幸か、恐怖よりも好奇心の方が勝った私は、着実に探索を進めていった。 最深部に佇む巨大な蟲。 断片的な資料によると、それは昔の人間によって作られたものらしい。 何やら複雑な背景があったようだけど、詳しい事は読み取ることができなかった。 そして蟲とは、作った人間達の手に負えないような恐ろしい代物だったようで……。 更に探索を進めていくと、様々な種類の薬液を組み合わせる事で「蟲」の弱体化を行う実験について、記録した資料が点在しているのを見つけた。 こんな不自然な形式で残されている理由があるとするなら……その実験は無断で、秘密裏に行われていた、とかだろうか。 制御できなくなった「蟲」を止める為に、活動していた人間がいたのかもしれない。 実験がばれたらどうなるのだろう? ふと、拷問に使用されていたという血塗れの大鎚を思い出してしまい……軽く寒気を覚えたのだった。 そんな資料を参考にしつつ、薬液を合成すべく仄暗い空間を奔走して。 「蟲」を弱らせる事に成功した私は、長い戦いの末、「蟲」にとどめを刺すことに成功した。 「………」 断末魔の叫びを上げたりする事もなく、不気味に崩れ落ちる巨大な「蟲」。 張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れ、勝利を喜ぶ間もなくその場にへたりこんでしまう私。 「はあぁぁ……」 私はこの後の事を考えていた。 この蟲を倒した事を辺境伯に報告しに行こうか。 もうじき完治すると言っていたルーちゃんにも、このことを話しに行こうか。 でも、この「蟲」を倒してしまって本当に良かったのだろうか。 何か知っているような口ぶりだったワールウィンドさんは、このことを一体どう思うのだろうか。 そもそも。 こんな化け物を倒してしまった私を、受け入れてくれる場所はあるのだろうか。 考えすぎかな―― 私は疲れきった身体に力を入れ、かろうじて立ち上がり、アリアドネの糸を探そうとバックパックに手を掛ける。 その時だった。 ガタン! しばらくの間、静かな機械の駆動音だけが支配していたこの空間に、異様な音が響き渡った。 私はこの音に聞き覚えがあった。 そう、これは作成した薬液を機械に入れた時の―― そして次の瞬間。 プシュゥーー! という音と共に、私がいる大部屋中に霧状の薬液が散布されていくのが分かった。 何者かが薬液を用意し、あの機械を作動させたのだ。 「いったい……誰が……?」 薄れゆく意識の中、発した私の質問に答える者はいなかった。 ◆ ◆ ◆ どれほどの時間が経っただろうか。 日の光など入る余地もない暗国ノ殿で時間の経過を確認する方法といえば、せいぜい腹の空き具合から判断する事くらいだろう。 あの巨大な「蟲」が暴れられる程の高さがある天井で、壊れかけの照明が妖しく明滅しているのが見える。 どうやら私は、「蟲」が居た大部屋の中央で、仰向けになって倒れているらしい。 早く起きて、帰らないと。 そう思い、アリアドネの糸に手を伸ばそうとした身体は、石のように動かない。 「……?」 あの霧状の薬液の影響なのだろうか。 得体の知れない不安を胸に、どうしたものかと考えていると……。 ギイィィ……という、大部屋の扉が開く音が聞こえてきた。 どうやら首が少しだけ動かす事ができそうなので、私は扉の方に目を向けた。 きっと、私の帰りが遅いものだから、みんなが様子を見に来てくれたんだ。 ――あれ、ソラちゃん、何やってるの?いっしょに帰ろ? ――ごめん、なんだか身体が動かなくて…… そこにはすっかり元気になった親友・ルーチェがいて。 ――大丈夫か!今、拙者が治療を……いや、まずは街に戻るぞ。 ――あ、ありがとうございます…… そこには心配そうな顔をしたキバガミがいて。 ――しかし一体、ここには何がいたんだ?ソラリス。 ――ええと……その…… そこには不思議そうな顔で辺りを見回しながら問いかけるウーファンがいて。 ――まったく、まさかあの蟲を倒してしまうなんてね。どうかしてるぜ。 ――…… いつものようにおどけた口調のワールウィンドがいて…… 「まったく、まさかあの蟲を倒してしまうなんてね」 「どうかしてるぜ」 その言葉だけが、ひたすら頭の中で反響し―― 扉の前に眼の焦点を合わせた瞬間、私は絶望の淵に突き落とされた。 そこに立っていたのは、複数のホロウメイガス。 ただ、この距離でも明らかに分かるくらいの、異質な雰囲気を感じた。 ホロウは意思疎通に言葉を必要とせず、それ故表情が顔に出ることもない。 私達ウロビトには、何を考えているのか分からない。そんな存在だったはずである。 この暗国ノ殿に保管されていた記録にも、そう書かれていたように。 しかし、今もなお音もたてずに近づいてくる数体のホロウメイガスからは、明確な敵意を感じることが出来た。 そう、それはまるで――「ホロウメイガスの身体を乗っ取った何か」からのような―― いつの間にか、4体のホロウが私の周りを囲むように立っていた。 流石に焦り、立ち上がろうとするも身体はまだ動かない。 その瞬間、驚くべき事に――いや、予想が当たってしまったと言うべきか――ホロウの1体が口を開いた。 「オマエガ ムシヲ タオシテシマッタ」 共鳴するように他のホロウも口を開く。 「ムシヲ タオシタノ オマエ」 それは激しい怒りの感情ではなく。 かといって憎悪の感情でもなく。 「ケイカクノ ジャマヲ スルヤツハ」 それは圧倒的優位に立つ者が、力なき者を嘲笑うかのような目で。 「タップリ コウカイサセテ ヤラナケレバ」 初めて聞くホロウの声。 明確な敵意を向けながらも、抑揚のない、作り物の声を投げかけてくるそれはとても恐ろしくて。 血の気が引いていく。 次の瞬間――4体のホロウは、ほぼ同時に私の身体に細い杖を連続で突き始めた。 先端が尖ったそれは、私の両腕に、両脚に、容赦なく刺すような痛みを与えてくる。 「い、痛っ……やっ、やめて……」 話が通じる相手ではないなんて分かっていても、自然に助けを求める声が出てしまう。 両腕に突き刺さった鋭利な杖が引き抜かれるたびに、どくどくと血液が溢れてくる。 両脚を貫く杖が骨に引っかかり、なかなか抜けず、それでも抜こうと杖が身体を抉るたびに、激痛が襲いかかる。 「うっ………あ……あああああああ……っ!!」 身体が石のように動かないならば、痛覚も石のように何も感じなければまだ良かったのに。 でも、石もまた痛みを感じているのかもしれない。 それを表現する様子が私には確認できないだけで。 少しでも痛みを和らげようと、そんな思考が頭の中をぐるぐると巡る。 そんな私が、いつの間にかホロウのうちの1体がその場を離れている事に、気付く事はできなかった。 もっとも、気付けたとして何かが出来たというわけでもないのだが。 先程まで杖責めを続けていたホロウ達が、不意に私からサッと離れた。 「はぁ……はぁ……?」 一体何があったのだろうか? 好き勝手に身体を突かれ、貫かれ、抉られた事による痛みは当然引く気配はない。 今この瞬間も痛くて痛くて痛くてたまらない。 こんなに痛みを感じさせる手足なら、いっそのこと切り落としてしまいたい。 それでも私は、首を動かして状況を確認した。 鮮血に染まった両腕両脚が見える。 そして、この凶悪な獣が跋扈する暗国ノ殿には似つかわしくない、頼りなさそうに萎んでいる黄色い物体が――2体。 あれはライデンジュウというモンスターで、他のモンスターと比べると非常に弱い。 むしろ、こちらが近づいても何もしてこない。 どうしてこんな場所に生息しているのかが不思議で仕方がないくらいのモンスターである。 そのうちの1体を――驚くべき事に、ホロウ4体が一斉に殴り始めた。 それはまるで異様な光景だった。 やはり、このホロウ達は、ホロウであってホロウではない―― その頼りなさそうな外見とは裏腹に、なかなかしぶとくホロウ達の攻撃を 受け続けるライデンジュウだったものの、ついに耐えきれなくなったのかどろどろに解けて消滅してしまう。 先程までの杖責めを受け続けていたら、私も……。 と思った次の瞬間、一歩も動かずじっとしていたもう1体のライデンジュウが、その形状を変化させた。 何倍にも巨大化した身体。 大きく開いた口内には、紫色の禍々しい光が見える。 何か危機――例えば仲間の死とか――を察知すると、形状を変化させるようになっているのだろうか。 気がつくと、仲間殺しの張本人であるホロウ達はいなくなっていて。 猛り狂うライデンジュウの矛先は、ただ私一人に向いていた。 「いや……私…じゃ…ない……っ」 精一杯の懇願も虚しく。 金色の悪魔は、超高圧の電流を放ってくる。 「あああああああああああああああああああああああ!!」 傷口だらけの身体にくまなく電流が走り、灼けるような痛みに苛まれる。 「あああああぁぁぁぁあぁぁぁぁああぁぁぁぁ!!!!」 あっという間に脳も蕩け、あらゆる思考が吹き飛ぶ。 「ひいいいいいいぃぃぃぃぃぃあああぁぁあぁぁああぁ!!!?」 もう何もできない。何も考えられない。 とめどない電撃の嵐に一人曝され、10秒も耐えられずに、私の意識は闇に墜ちていった……。 ◆ ◆ ◆ 次に目が覚めた時、病院のベッドの上だったらどれだけ良かっただろうか。 霞む視界には、相変わらず壊れかけの照明が――しっかりと点灯しているそれが、私の思考を現実に引き戻す。 身体を動かそうとすると、電撃で敏感になったのであろう肌が、床に擦れるたびに強烈な痛みを脳に送ってくる。 まだ当分、自分で動く事はできそうにない。 それにしてもあの照明、少し前は明滅していたはずなのに。 先程部屋中に発せられた大放電によって、その機能を取り戻したのだろうか? などと考えていたら、ふと下半身の違和感に気付いた。 「うぅ………」 電撃の影響で失禁してしまったのは、すぐに分かった。 今の体勢では確認できないけれど、床にもみっともない染みが広がっているに違いない。 こんな姿を誰かに見られるのは、恥ずかしくてたまらないけれど。 誰も助けに来てくれないよりは、ずっとましなはずで。 あんな拷問のような責めを受けるよりは、ずっとましで。 もし、助けに来てくれる人がいたならば、恥も外聞もかなぐり捨てて救いを求めるに決まっている。 ギイィィ……と、扉が開く音。 もっとも、この状況で扉を開く者がいるとしたらそれは―― 立っていたのは、4体のホロウ。 薄ら笑いを浮かべつつ、ゆっくりとこちらに迫ってくる。 それは先程の個体と同じである事を意味していた。 更に、その手に先程まで持っていた細い杖はなく……血塗れの戦鎚が握られていた。 「……め…て……もう……」 喉まで灼けたせいか、声もうまく出てこない。 そんな事を気にも留めない様子のホロウ達は、私の横に一列に並んだ。 「……?」 そして戦鎚を持つ手を大きく振りかぶり……それを真っ直ぐ私の腹部へと下ろしてきた。 「んっっ!!ぐふぉぁぁ……」 その一撃で、無防備な腹部の骨が砕かれ、不自然に折れ曲がった骨は内臓を貫き、破壊する。 口からあふれ出す大量の血液。 腹部からの大量の出血。 絶望的な一撃を与えてきたホロウは下がっていき、2番目に並んでいたホロウが近づいてきて……。 今度は胸部に向かって戦鎚の一撃を加えてきた。 「!!!! ごほっ、おぁっ……!」 途端に呼吸が苦しくなる。 吐血が止まらない。 そんな私をよそに、一人ずつ交代で、私の身体のあらゆる場所へと戦鎚を振り下ろすホロウ達。 これを「拷問」と呼ばずに、何と呼ぶのだろう? みるみるうちに、全身の肉は潰され、骨は砕かれ、血液が部屋中に飛び散ってゆく。 もういっそのこと、こんな地獄の淵を這うような苦痛を私に感じさせ続ける頭も砕いてしまって。 早く、早く殺して欲しい。 それなのに、頑なに頭は狙おうともしない。 耐えがたい痛みを与えられ、何度も意識を飛ばす私。 その度、気つけ作用のある術か何かを掛けられ、再び覚醒させられてしまう……。 戦鎚責めを幾度となく繰り返された後、ホロウ達はまたしても急に攻撃を止めた。 もう攻撃を止めようと止めまいと、感じる痛みは変わらないし呼吸の苦しさも変わらない。 また激痛のあまり意識が飛びかけた所で、気つけの術をかけられる……。 思えば、とっくに失血死してそうな量の血が出ているにも関わらず、未だに命を繋いでいるのもホロウの術によるものなのかもしれないが、私には知る由も無かった。 いつの間にか私の近くまで来ていたのは、何やら赤い物体。 もう目も殆ど見えなくなっていて。 それでも、あまりにも独特な気配から、それが何なのか察するのは容易だった。 暗国ノ殿最強の名を恣にする――「赤獅子」に他ならない。 「狂血の契り」 ああ、そんな事をしなくても、いまの私なんて簡単に食べられてしまうはずなのに。 いや、こんな思いをするのなら、もう食べられちゃってもいいかも。 ホロウ達の術により覚醒した赤獅子は、充血した目を私に向け……私の下半身に食らいついてきた。 細い右脚を丸ごと、既に砕け散っている骨まで一緒に、大きな口を開けかぶりつき、丁寧に咀嚼していく。 くちゃくちゃ……ごりごり……がりがり……と、嫌な音が響き渡る。 床中に飛び散った血溜まりまで、丁寧に舐めとり、今度は左脚を咀嚼していく……。 感覚が完全に麻痺したのだろう。 もはや痛みなんてものは感じなくなっていた。 ただ、私の身体はこの赤獅子の栄養となり、一部となり。 この世界から、私という存在の欠片が残る事なく消えていくのが。 悲しくて悲しくて、涙があふれていた。 それは、苦痛とか、恐怖とかによるものではない、純粋な悲しみから来る涙。 私は「蟲」を――歪みし豊穣の神樹を倒した。倒してしまった。 それは人智を越えた、深緑の権化。 そんな事をした私の居場所なんて、どこにもないのかもしれない。 でも、それって、ここまでされるほどの罪なのかな? 最後に、ルーチェちゃんへ。 一緒に冒険できなくて、ごめん、なさい。