1章 桜井寧子

「ただいまあー、っと」 桜井寧子・25歳は、自宅であるアパートに帰るなりそう呟いた。 昔からの習慣で、帰宅の際はとりあえずただいま、と言ってしまうのである。 最も、一人暮らしの彼女があげた声に応えてくれる者など、誰もいないのだが。 1Kの部屋には、本人にだけ分かるように雑多な物の数々が心狭しと配置されている。 とはいっても俗に言うところのゴミ屋敷のような様子では断じてない。 もし友人を呼ぶとなると――人数にもよるが――1時間くらいは片付けが必要になる程度である。 そんな部屋の天井付近に掛けられた時計の針が、もう20時を示していた。 彼女は普段よりも腹が減っていたため、さっさと服を脱ぎ洗濯機に放り込むと、下着姿のまま夕飯を作り始める事にした。 まずはキッチン付近の台に立てかけてあるiPadに指を走らせ、クックパッドにアクセスする。 軽くトップページを眺めた後、豚肉と豆腐の炒め物を作る事に決め、調理を開始する。 「あっつつ……」フライパンに入れた油がはねて首のあたりに直撃し、思わず声をあげる。 服を着れば済む話ではあるのだが、そうすれば今度は顔にかかるかもしれない……と考えると、面倒になってしまうのだ。 自業自得とは思いつつも、忙しい時はついやってしまう。 その後も服を着ようとしなかったために、料理が完成するまでの間、断続的に発生する熱さに耐える羽目になった。 「いただきまぁす」帰宅した時のただいま、の感覚でそう呟いた。 目の前には、先程まで調理していたものが綺麗に皿に盛りつけられている。 様々なアルバイトを転々としてきたのもあって、何をやってもそれなりにこなす彼女にとって、綺麗な盛りつけなど呼吸をするように行える行為なのだ。 料理の腕に関しても、初めてであろうとレシピさえ分かればそれなりのものが作れる程度には上手くこなす事ができる。 「ん……おいしい」何口か味わった後、その出来に満足し頷く。 肉が消費期限を1日切れている事を除けば、地元の料理屋で出しても問題ないレベルである。 彼女は基本的に外食する事はなく、食事は自炊で済ませる事にしている。 アルバイト生活で収入が安定しないからやむを得ず、というのはあくまで理由の一つに過ぎなくて。 何事にも飽きっぽい性格である彼女が続けられる、数少ない事の一つが自炊なのである。 食事を終えた後は、浴室に向かった。 浴室はアパートに備え付けのシンプルなもの。 不満な点はあるのだが、規則により改装を禁じられているので仕方ない。 彼女は軽くシャワーを浴びてから湯船に浸かり、クリーム色の天井を眺めつつ小さく溜め息をついた。 「また次のバイト、探さなきゃぁ」 そう、彼女は今日付でアルバイトをやめてきたばかりであった。 寝間着に着替えた彼女は、絨毯の敷かれた床にへたり込み、目の前の小さなテーブルの下に両脚を伸ばしてリラックスした体勢をとる。 そして、テーブルの端に無造作に重ねた紙の山――大半は近所のスーパーや職安のチラシである――の中から一冊のノートを取り出した。 そこには、今までに応募し採用されたアルバイトの情報が書かれていた。 複数のページにまたがって書かれたそれは、数にしておよそ30以上もあった。 彼女はボールペンを取り出し、最後に書かれた文字「新宿イタリアン オレルス」の左に×印を付ける。 更に、その下に今までの勤務期間も付け加えると、仰向けになりながら伸びをした。 「んーっ……んえ?」伸びをしていると不意にテレビの電源が入り、思わずテレビの方を二度見する。 伸びをした拍子に、左腕の肘が床に転がっていたリモコンを押してしまったようだ。 先程まで静寂に包まれていた空間に、お笑い芸人の明るい、というよりはやかましい声が流れ込んでくる。 ただ、あまり部屋が静かなのも色々考えてしまって頭が疲れると思い、テレビはそのままつけておく事にした。 ふとテレビの方に目を向けてみると、着物を身に纏った方が、ぼろ布のようなものを身に纏った方に刀(もちろん模造刀だろう)の柄で突っ込みを入れていた。 最近結成した何とかというお笑いグループだったはずだ。覚え辛くて忘れてしまったが。 周囲では「まあ1年もてば御の字だろう」と言われているような2人組だという話を、前のバイト先で聞いたような気がする。 「私よりも全然長いからいいじゃない」と、つい自分の現状と比べてしまうのだった。 スマホゲームでもやろうか、とiPhoneに手を伸ばそうとしたその時。 iPhoneは「キンコーン」という通知音を発して、同時に画面が明るくなった。 パスコードを入力しロックを解除すると、LINEのメッセージが届いているのが分かった。 「檎香からだ」 画面には次のように表示されていた。 【やほー】 いつものように返す。 《にゃー》 この一見無意味なやりとりは、彼女達にとって今から会話を始められるかの確認みたいなものである。 他には気分次第で「ぬんぬー」だったりスタンプ等を返したりしている。 【今日はねえー】 彼女は素早く画面をフリックし、相槌を打つ。 特に作業をしているわけでも、TVドラマを見ているわけでもなく、LINEに集中しているからこそできる芸当である。 《うん》 【なんか変な人に告白されちゃって】 《へ????》 思わず疑問符を大量に打ってしまう。 《仕事で?》 【そお】 《相手って》 少し長めの間。 【電話のお客さん】 《なあんだ》 いつもの事か、と彼女は思った。 先程からの会話相手は、彼女の昔からの――それこそ幼稚園からの――友達であり、今はコールセンターのオペレーターとして働いている。 いかにも可愛らしい声に魅了された男から、どういうわけかデートの誘いを受ける事は、一月に一回くらいはあるという。 《でもいつものじゃなくて、告白まで?》 【うんうん、びっくりだよー】 《ね、何考えてんのかな》 【なんだろねー】 《そいえばさっきの変な間ってなんだったの?》 【もしかしたらびっくりするかなあって】 【思って】 《えー、今更しないしない》 【そっかあー】 その後もしばしの間、2人は互いに他愛のないやりとりを繰り返した。 時計の針は、既に22時を示している。 【そういえばねいこー】 《どしたの?》 【今のお仕事ってまだ続いてる?】 ぱたりと指の動きが止まった。 【あっ気悪くしちゃったら】 【ごめんね】 慌ててメッセージを入力する。 《だいじょbう》 《大丈夫》 《でも丁度、今日やめてきちゃったところで》 【そっかあ】 【なんかそんな感じがしてね】 電話でもないのに「そんな感じ」とは一体どういう事なのかと彼女は心の中で思う。 しかし、一見文字だけのやりとりに見えるチャットにも「間」という要素がある。 そこから心境の変化を判断する事も、できないわけではないのだ。 たまたま、それが出来る人が会話相手だっただけの事で。 《檎香に隠し事ってできないねえ》 【なんか紹介しよっか?】 《ううん、自分で探すよー》 《またやめちゃったら紹介してもらった檎香に悪いしね》 【そっかな?わたし全然気にしないよー】 《いや気にしようよそこは》 【えー?】 彼女がやれやれ、と思いつつ返信を入力していた所で、LINEのメッセージ通知音とは異なる「ふぁーん」という音が鳴った。 Eメールが届いたという通知である。 LINEでの会話はちょうど一区切りついた所だし、短いメールであればすぐにチェックしてしまおうと思い、素早くメールアプリを開く。 今時メールで何か送ってくるものと言えば、例えばサーティワンからのメールマガジンだとか、旅行会社からのチケット予約連絡だとか、後はオオアリクイがどうとかいう迷惑メールが思い当たる。 それ以外はというと…… 「あ、みさきちだ、みさきち」画面に表示されたメールの差出人の欄には、「高嶋雅咲」と書かれていた。 この人物こそ、彼女の交友関係の中では唯一のガラケーユーザーであり、Eメールで連絡を送ってくる友達である。 件名にはシンプルに「集合」とだけ書かれており、その下には以下の本文が続いていた。 [莉沙が風邪。都合つくなら見舞いに来てほしい。明日10時] 彼女はいそいそとLINEの画面に戻った瞬間、メッセージが届いた。 【メールみた?】 なぜメールが来た事を知っているのか驚いたものの、落ち着いてメールアプリを再度開き、宛先に「自分, 紅林檎香」と書かれているのを確認する。 《うん》 《莉沙が風邪って》 【いく?】 《私は暇だけど、檎香は?仕事あるよね》 【いやいやー、明日土曜日だよねいこ】 【もちろんいくよ】 明日は土曜日、世間的には休日である。 彼女は曜日感覚がなくなりつつある自分に少しばかり自己嫌悪していたら、時間差でよくわからない生物が喜んでいる事を主張するスタンプが送られてきた。 要は病人の見舞いに行くわけで、普通の感覚であれば喜ぶのは不謹慎というか、何か違うと思うだろう。 しかし、この2人にとって莉沙の見舞いとは、「久しぶりに4人で集まれる」という事を意味していた。 《それじゃ明日9時、新宿駅!家いく前に色々買ってこ!》 【いいけどー待ち合わせは?】 《あー》 《檎香のが慣れてたよね、おすすめある?》 【新宿はねえ】 【待ち合わせに使わないのが一番だよー】 《さっすが檎香ちゃん》 明日の予定を決めた後、彼女は普段より幾分早く消灯し、布団を被った。 普段であれば、バイトのない日は二度寝、三度寝当たり前。 明日こそはすっきり起きようという、意志の表れだ。 「おやすみなさい……」 久々の集まりへの期待を胸に、彼女は普段通りにそう呟くと、静かに眠りに就くのだった。