2章 紅林檎香

壁に取り付けられた小さな機械は、液晶画面に8時59分と表示していた。 その機械の正面に位置するエレベーターの扉が開き、一人の女性がまっすぐ向かっていく。 紅林檎香・25歳は、財布からカードを取り出すと、慣れた手つきでそれを機械に通す。 そして、正常である事を示す「ピッ」という音が鳴った事を確認した後、自分の席へと向かっていった。 自席につきPCの電源を入れている間、同僚と挨拶を交わす。 「おー、紅林さん今日も時間ぴったり」 「えへへ」 「今まで全然遅れた事ないよね」 「一本でいけるし?」実は彼女がこの会社に決めた一番の理由は、電車一本でいけるから、である。 「そっかぁ、近いもんね。あ、そうそう、この間見てきた映画なんだけど……」 そうしているうちに電話受付システムの準備が完了し、コールセンターとしての仕事が始まる。 彼女は現在、ある旅行会社のWebサイトの問合せに対応するオペレーターを担当している。 今日は人気の北海道ツアーの予約受付が開始される日であり、サイト利用者がいつもよりも跳ね上がる事が予想されている。 つまり、それだけ問合せも増えるし、口を開く数も増えるという事だ。 彼女はバッグから500mlのミネラルウォーターが入ったペットボトルを数本取り出し、自席の机に並べた。 「本当はジュース飲みたいんだけどねえ」ぽつりと呟く。 「仕事に支障でるもんねえ」と同僚。「かわりにお昼おいしいの食べいかない?」 「んーごめん、お昼はちょっと、約束あって」彼女が少し気まずそうに同僚に答えると、 「あ、それってもしかして」 「そうそう、いつもの……」 同僚はニヤリと笑う。 「うらやましいなーもー。またお腹一杯食べてくるわけね」 「えへへ」 唐突に電話の呼び出し音が鳴り響く。 「あ、来た来た」 ようやく本格的に彼女の業務が始まり、自然と「仕事声」に切り替えた。 「はぁい、シリカ・トラベルでございます」 「失礼いたしますぅ」からツー、ツーという音が聞こえてくるのを確認し、彼女はそっと受話器を置いた。 ちょうどそのタイミングで、社内の蛍光灯が次々と暗くなっていく。 彼女の勤める会社では、節電という大義名分のもと、昼休みの間だけ蛍光灯が切られるようになっているのだ。 昼休みは出かける用事がある。 残量の少ないペットボトルを手にして一気に飲みほし、喉を潤す。 今日開始の北海道ツアーは予想以上に人気が高く、ミネラルウォーターのペットボトルを2本も消費してしまっていた。 彼女は「じゃ、行ってくるね」と電話対応中の同僚に小声で伝えると、エレベーターの方へと向かった。 12時5分。 会社付近に位置する、とある公園にて。 彼女は、本来かける必要はない眼鏡(もちろん、度は入っていない)と、あからさまに目立つ桃色の帽子をかけ、ベンチに腰かけていた。 すると、平均体重を20kgはオーバーしていそうな姿の男が、真っ直ぐ向かってきた。 この男、見た目はともかく常にきょろきょろ周囲を見回したりする等挙動が怪しく、このご時世見る人が見れば下手すると通報ものである。 そんな男が、彼女の目の前に立つと、見下ろしながら話しかける。 「あ、あの」 「あっ、あなたが昨日お話した……」 「はい!」 「お待ちしてましたぁ」 彼女は、この名も知らぬ男とランチを食べる約束をしていたのだ。 「おすすめの所があるんですよぉ」マイペースで歩き始める彼女。 慌ててそれを追いかける男。 ただし彼女にとっては、名も知らぬ男、というのは若干語弊がある。 正確には「特に名を覚えるつもりのない男」である。 彼女は迷うことなく、「フルーツパーラー・エクレア」と書かれた立て看板のある店に入った。 昼休みはあまり長くないため、早く食事を済ませなければならない。 ましてや、スイーツ食べ放題の店となれば尚更のことだ。 こういった場所に慣れていないのか、おろおろしている同行者を慣れた様子で席に案内する。 1分もかからずに食器やスイーツの場所などを説明し、さっさと自分の分の準備を始めた。 「早めに取ってくるといいですよお、時間もないですから」 「は、はあ」 男は言われるままにスイーツの方へと向かい、とりあえず目についたモンブランとイチゴショートを選ぶ事にした。 そして席に戻った男は仰天した。 2人組のテーブルの上は、食器1つ分のスペースを残して店内のあらゆるスイーツに支配されていたのだ。 小さめのオムレツが載った皿もあったが、例外はそれくらいのものである。 男は店内を見渡すとオムレツ作りの実演コーナーを発見し、あそこで貰ってきたのかと納得しかける。 だが改めてテーブルを見渡してみて、スイーツの異常な量を目の当たりにし正気に戻る。 「こっ、こんなに……!?」 「おいしいですよお」屈託のない笑顔で彼女は答えた。 しかし、それも一瞬の事で。 彼女は、もういいでしょう、と言わんばかりに目を離し常軌を逸した早さでスイーツを食べ始めた。 男はというと、この初対面の女性と食事と会話を楽しむという目的があったはずなのだが、そんなものはすっかり吹っ飛んでしまったらしい。 「あの、えーと……」時々そう呟きつつも、結局声を掛けるのには至らず。 楽しい時間はあっという間に過ぎるもので(双方にとってそうだったどうかはともかく)、店内の時計の針は12時50分を指していた。 「この後仕事に戻らなきゃなんですよー」彼女はそそくさと帰り支度を開始する。 先程までテーブルの上で山脈を形成していた数kgものスイーツ群は、彼女の胃の中にあるブラックホールに吸い込まれてしまったのかもしれない。 そう考えるのが妥当なくらい、あれだけの量を平らげた後でも何事もなかったように振る舞う彼女に、男はもはや畏怖すら覚えていた。 「今日はありがとうございましたあ」 「はひいっ」男は思わず情けない声をあげる。 「食べ放はあと1時間と20分くらい?はありますし、いろいろ食べてみるとたのしいと思いますよー」彼女は笑顔でそう言い残し、雑な手書きで下の方に「4320 x 2」と書かれた伝票をテーブルにおいたまま去って行ったのだった。 食べ放題で料金が固定だったのは、彼女としては最後に残った良心だったのかもしれない。 一方的に男と別れた彼女は、小走りで会社へと戻った。 彼女は、電話対応中にどういうわけか食事に誘われたりする事がある。 今回のような事は一度や二度ではなく、機会を得るたびにこうして普段なかなか食べられないようなものを味わっているのだ。 彼女は普段からこのような大食い体質なのではなく、「食べようと思えばいくらでも食べられるタイプの大食い」である。 彼女の会社はとにかく開始の時間にうるさい為、出勤時と昼休み終了時は特に気を使う必要がある。 自席に戻ってPCのロック状態を解除し、時計のデスクトップアクセサリーの表示を確認すると、あと数秒もしたら13時になる所だった。 「あぶないあぶない」 「おかえりー、楽しんできた?」と同僚。 「えへへ」彼女はお腹をさすりつつ、半笑いで返した。 その直後、電話の音が鳴りだしたので、頭を仕事モードに切り替えることにした。 とりあえずこれが終わったらお手洗いにいこうかな、と思いながら。 「せっかく予約できると思って(住所を)入れてたのにさあ」 「申し訳ありません」 「何とかできないの?」 「こちらとしてはどうにも……」 彼女は珍しく苛立っていた。 昼休みが終わった直後にかかってきた問合せがなかなかの曲者だった。 件の北海道ツアーは、多くの人数を想定して組まれたものであったものの、昼頃には定員に達し応募を締め切った。 だが、運悪くも住所等の必要情報を入力している最中に締め切られてしまったらしい人が、「途中までは登録できていたのに」と怒り心頭で電話をかけてきたというわけだ。 システム上は「途中まで登録できていた」という状況は起こりえないのだが、そういった事情は一般の利用者の感覚では理解できない事で。 通話状況をモニターするプログラムが、通話開始から1時間が経過した事を表示している。 このような、延々と怒りをぶつけてくるだけの何の生産性もないクレーマーは偶にいるものなので、普段であれば彼女が苛立つことはない。 最も大きな理由としては、電話開始から10分もしないうちに尿意を催し、現在まで我慢し続けているという事が挙げられるだろう。 彼女は声が枯れるのを防ぐべく、相手が長々と捲したて始めたのを見計らって水を飲み喉を潤す。 それが更に尿意を促進させる。 背後を歩く社員は、何気なく彼女のPCの画面に表示されている通話時間を見て「こりゃ大変だな」と思い通り過ぎていく。 彼女が小刻みに震え、脚を交差させ身悶えている事など知る由も無い。 彼女はひどく顔を紅潮させながらも、声だけはあくまで平静を装っているつもりだった。 だが、声が震えている事を指摘された時、遂に我慢の限界に達してしまった。もちろん、2つの意味で。 「なんだよ、もしかして泣いてんのか」 「誰のせいだと思ってるの!!」もはや開き直って涙声だ。 「!?」 「大変申し訳ありませんが少々お待ち下さいね!!」 やってしまった。 通話の相手だけでなく、周囲の人々が目を丸くする中、もの凄いでトイレへと向かっていった……。 この手のクレーマーというのは大抵、怒りを発散する相手を求めているだけである。 何十秒も保留にされるとその間に落ち着き、電話を切ってしまう事はままあるもので。 事を済ませた彼女は、内心そうなる事を期待しながら自席に戻ってきた。 周りの視線が痛いが気にしてはいけない。 PCの画面を見ると未だに通話時間のカウントが続いており落胆した。 仕方なく保留状態を解除し、通話を再開する。 「……失礼いたしました」 「あのさ」 「はい」先程とはうって変わって真面目な口調が気になる。 「私と付き合っていただけないでしょうか」 「いただけません」 彼女は一方的に通話を終えた。 直後に同僚から「ど、どんまい」と言われ、泣きそうになった。 恥ずかしい出来事があったものの、その後は至って平和に応対をこなし、やがて定時が訪れる。 通話を終えて時計を確認すると17:55と書かれている事に気付いた彼女は、まだ勤務時間ではあるものの、PCを操作して自主的に通話待機状態を解除する。 定時になった瞬間に帰宅する為である。 そしてiPhoneを取り出し、Eメールを打ち始めた。 宛先:高嶋 雅咲 件名:依頼だよ 13時からの長いやつ消しといてー よろしくね(((o(*゚▽゚*)o))) 右上の「送信」をタップした頃、時間は17:59になっていた。 彼女は流れるようにPCをシャットダウンし、バッグを持って自席を後にした。 エレベーター前、18時00分と表示している小さな機械にカードを差し込み、家路へと向かう。 彼女は極力、自分の時間をとる為の努力は欠かさないようにしている。 いつの間にか居なくなっている事から、社員達からは自然と「雲隠れの紅林」と呼ばれているほど。 ただし今日に限って言うならば、ここまで素早く帰るのに、昼過ぎの出来事が無関係というわけではないだろう……。