3章 高嶋雅咲

高嶋雅咲・25歳の朝は早い。 彼女はいつものように目覚ましを使わずとも午前6時に目覚め、まどろみに身を任せることなく、大きめのベッドから起き出した。 洗顔を済ませ、朝食の支度に入る。 自分の分はもちろんだが、未だベッドで寝ている同居人、風見莉沙の分を作らなければならないからだ。 とはいえ、彼女自身それほど料理が得意なわけではない。 以前、少し凝ったものを作ろうとしたら思いの外時間がかかり、莉沙の出勤に間に合わなかった。 しかも最終的に出来上がったものを食べてみたところ、時間がかかった割に微妙な味で、朝と昼の2回に分けてようやく食べきったという苦い思い出がある。 それ以来、朝食はフレンチトーストを作る程度に済ませる事にしていた。 6時半になるとベッドの方から電子音が鳴り響く。 同居人の莉沙が枕元に置いているNexus 5の目覚ましアラームだ。 その音は10秒ほど鳴った後に止まったものの、それから全く音沙汰無い。 莉沙がなかなかリビングにやってこないので、どうせアラームを止めたその手で枕に抱きついて固まっているのだろうと思いながら、ベッドの方に様子を見にいくと。 そこには全く予想通りの光景が広がっており、彼女は嘆息した。 「莉沙」 「んー」枕に顔を埋めており、くぐもった声で応じる莉沙。 「ごはん」 「んーんー」 「遅刻するよ」 「ひっ」がばっと顔を上げ、惚けた表情をさらす。 いつものことだと思いつつ、彼女はリビングの方を見ながら「冷める前に食べて欲しいんだけど」と促した。 「あ、ごめん」莉沙はのろのろと立ち上がってリビングへ向かっていった。 「今日は遅いの?」雅咲が紅茶を飲みつつ訊いた。 「最近忙しいから……今日も、遅いですよ」莉沙はフレンチトーストを食べて頭に栄養が回ってきたのか、いつもの口調になる。 「そっか」 残念、とは口に出さないでおいた。 それからしばらくの間、二人は黙々と朝食の時を過ごす。 「それにしても……今日もこれ、なんですね」トーストを平らげた莉沙が、複雑な顔でぽつりと言った。 「だ、だっておいしいって言ってくれたじゃない」 「でも、5日も連続で出て来るとか思ってないですし」 「う」痛いところを突かれる雅咲。 確かに以前材料をAmazonでまとめ買いしてから、朝食はずっとフレンチトーストしか作っていなかった。 「そ、そもそも莉沙だって」頬を膨らして言い返す。「和風なのか洋風なのかはっきりすべきね」 本の代わりに本棚に飾られ、PCデスクの上に飾られ、果てはトイレ部屋の網棚にまで飾られた刀の事を暗に指摘する。 「そ、それとこれとは別ですし」文句の応酬は続く。「それを言うなら貴方だって、私よりも圧倒的に多い服の数をですね」 「こっちはこっちで使うんだから、それよりほら、もうすぐ時間じゃない」 時計の針は7時20分を指している。 「あ、本当ですね急がないと……」 慌てて化粧を始めた莉沙を尻目に、雅咲は充電スタンドに安置していた携帯を手に取り、画面を開いた。 センターにEメールがあります、という表示を見て舌打ちする。 ――あるなら受信しなさいよ、と思いつつ操作し、メールを受信した。 差出人:桜井 寧子 件名:Re: 趣味 籐やってみるね!ありがとー 追伸、籐って変換するとき「とう」っていれてるんだけどいいの? 彼女はすぐ「ラタンとも言う」と返事を返しておいた。 他のメールが来ていない事を確認し、やや面倒臭そうな様子で莉沙のPCの電源を入れる。 それを見て思い出したかのように、今にも家を出ようとしていた莉沙が玄関から「あ、刀の遠征よろしくお願いしますねー」と頼んできた。 雅咲は「んー、やっとく」と快諾。 「じゃあ、行ってきますから」 「気を付けて」 ガタン、と音がしたので鍵を掛けに行こうとしたのだが、その直後にガチャリという外側から鍵を掛ける音が聞こえた為、再び椅子に腰を降ろした。 ふぅ、と溜め息。 「今日もなんか仕事探してみるかぁ」 彼女は最初に勤めていた銀行を不景気と素行の悪さが災いして1年しないうちにクビになってからというもの、莉沙が一人暮らししていた家に転がり込み、自称フリーターとして活動している。 莉沙からはしばしばニートだと言われるが、本人は断じて違うと日々主張している。 彼女はアルバイトをしているわけでもなく、ネットを眺めては少しばかり変わったことをしてお金を稼いでいるのだ。 「お金を稼いでいるんだから働く意思はあるし実際働いている、故に私はニートではない」というのが専らの主張である。 彼女はPCのデスクトップにある刀剣乱舞と書かれたアイコンをダブルクリックしてIEを立ち上げ、頼まれた通り遠征に出した。 次にChromeブラウザを立ち上げ、、まずは履歴をチェック。 「……つまんない」 莉沙が何か残していないかと思ったのだが、履歴を消しているのかプライベートモードで閲覧しているのか、履歴は一切残っていなかった。 残念に思いつつも履歴表示を閉じる。 いよいよここからが本題である。 彼女はタブを次々と開いては、2ちゃんねるを始めとするいくつかの掲示板を眺め、情報収集する。 多くはしょうもないものばかりで、特にお金を稼げそうな話など、眉唾ものの情報しかない。 その中でも特に目を引いたのは、こんな書き込みである。 439: 名無しさん :2015/04/02(木) 23:46:52.01 ID:pV9ERWhs 死体洗いのバイト募集してる 凄い高給らしい ↓ ↓ ↓ http://... 「今時死体洗いって」彼女は思わず画面に突っ込んだ。「そりゃないわ」 こんな古い都市伝説など、時代錯誤もいいとこである。 スレッドを読む限り、そのレスは殆どの人達に無視されており、たまに反応したかと思えば「エイプリルフールは終わったぞ」といったどうでもいいものばかり。 彼女も軽く流そうと思っていたのだが、どうにも死体洗いの件が頭に残って離れない。 何しろ、今時そんなものを募集してくるくらいである。 多くの人が無視するところまで想定済みだったとしたら? ……恐る恐るレス439番のリンクをクリックしようとした、その時だった。 ガタン! 「え」 突然、PCデスクの上に飾られていた刀が落下してきて、彼女が握る有線マウスの根元を切断したのである。 「……」 後少し場所がずれていたら、右手の指が切断されていた。 心臓がばくばくと跳ねる。 これは警告だ。 このURLをクリックしてはいけないと、何者かが警鐘を鳴らしているのだ。 しばし動かなくなったマウスカーソルを呆然と見つめてから我に返り、落ち着いて部屋の隅――雅咲の私物を置くエリアでもある――に置いてあるジャンク袋から無線マウスとそのレシーバを取り出す。 それを莉沙のPCに繋いで動作を確認し、床に転がっている物騒な刀をとりあえずテーブルに移動させておいた。 この時ほど同居人の趣味を恨んだことはない。 「今のは偶然、偶然」 滅多なことでは動じない方だと思っていた彼女でも、流石に身に危険が及ぶとなると、動揺せずにはいられなかった。 少なくとも自分の付近に危険物がない事を確認すべく見回す。問題ない。 彼女はURLをクリックした。 必要最低限の装飾しかない、シンプルなページに辿り着いた。 メールフォームから担当者に連絡をとれる仕組みになっているらしく、個人情報をいくつか入力する欄がある。 2ちゃんねるのレスに連絡先の電話番号ではなくURLが書いてあるのを見た時点で、「古くからの都市伝説」と「近代的な募集方法」とのギャップに違和感を持ったものだが。 こうして改めてメールフォームを眺めていると、そのギャップに少しばかり笑えてくる。 ページのシンプルさと、何よりドメインがとあるDDNSで利用されるものだった為、ここは自鯖サイト(自宅のPCで運用されているWebサイトの事)だと判断した。 「となると……こっからはこいつの出番ね」 彼女は再度ジャンク箱に向かい、年季の入ったPCカードを取り出した。 そして、別のテーブルに置いてある彼女の愛用のノートPCであるThinkPadに挿入し電源を投入する。 更に、PCカードに付いているソケットと携帯を接続し、ダイヤルアップ接続ができるように設定した。 これはつまり、ここから先の行動は自分自身が契約しているネット回線を使うという事である。 莉沙のPCで怪しい行動を取ると、最終的に莉沙の迷惑に掛かると思っての判断だ。 「さて、と」 先程のURLを彼女のPCのChromeに直接入力し、再度アクセスする。 画面には、程なくして同様のページが表示された。 携帯からのダイヤルアップ接続のせいで通信速度は128kbpsと低速なため、シンプルなサイトで良かったと改めて思った。 もちろん、彼女がただ情報を入力して送信ボタンを押すわけがなく。 ページのソースを確認し、何度かでたらめの情報を送信しプログラムの挙動を確かめた。 5分ほど試行錯誤したのち、彼女は推測する。 「これ……ディレクトリトラバーサルいけんじゃないの」早速実践し、パスワードファイルの表示に成功。「よし」思わずガッツポーズ。 要するに、プログラム中の脆弱性を突いて、サーバ上に存在する様々なファイルの中身を閲覧できる事が確認できたのだ。 彼女はこれを存分に悪用してサーバ内を駆けずり回り、最終的に管理者のメールアドレスを入手する事に成功した。 単純にこのアドレスへ問い合わせるだけであれば簡単である。 だがそれだけでは、件のバイトについて聞いてもはぐらかされるのが落ちだ。 彼女は、直ちに即席のプログラムを作り始めた。 完成したプログラムをサーバに公開後、次のようなメールを送った。 宛先:Px6biktw@fictionalddns.net 件名:死体洗いについて 直接会って詳しい話を訊きたい。 待ち合わせ場所は以下。(地図が開く) http://bit.ly/1bwfqCy 「送信、と」 意気込んでプログラムを作成していたものの、プログラムへ誘導する手段について考え始める頃には冷静になっており「本当にこんなメールで引っかかるのか」という考えに頭が支配されていた。 だが折角作ったものだからと、上のようなメールを送信したわけである。 「ふぅ」彼女は立ち上がり、部屋の隅に置いてある自分のバッグから煙草を取り出すと、ベランダに出て扉をしっかりと閉めた。 大量のパイプを束ねて作った、無骨なデザインのベンチに座ると、しばし煙草を吹かして過ごす事にした。 同居人は喫煙者ではなかったが、「ちゃんと分煙してくれるならOK、しないなら追い出します」と言ってくれたので、こうしてベランダで吸っているというわけである。 以前深夜近くになってベランダで喫煙中、疲れて帰って来た同居人が内側から戸締まりしてそのまま布団にダイブしてしまい朝まで放置されたという事件があって以来、夜は吸わないようにしている。 一服して部屋に戻ると、メールが届いていた。 問い合わせについてはサイトのメールフォームからお願いします、という旨のものだった。 恐らく、あのメールアドレスへ直接連絡が来る事を想定していなかったのだろう。 いかにもテンプレート回答を装ってはいるが、所々に誤字脱字がある。 次に、先ほどのプログラムを公開したサーバの状況を見てみることにした。 緯度と経度が半角スペースで区切られて書かれたテキストファイルが出力されているのを確認し、少し驚きつつも満足げに頷いた。 「マジでひっかかった」 ちなみにこの緯度経度、先程メールを送った相手のもので。 メールに載せたURLを踏むと、ブラウザには地図が表示されるだけのように見えていて、裏では彼女が用意したサーバに位置情報を送信するようになっていたのだ。 通常はWebブラウザ上で位置情報を取得する場合、ユーザ側の許可を求めるダイアログが表示されるのだが、同時にインラインフレームで表示させるGoogle Mapsが許可を要求しているように見せかける事で違和感を無くしていた。 彼女は早速Google Mapsにアクセスして、緯度経度を入力すると、赤いマーカーが自宅からそれほど遠くない場所を指した。 「うわ」思わずそう呟く。 乗り換えは1回、駅からの徒歩も含めて1時間掛からない場所という事が分かったからだ。 出来すぎた話だと思うものの、これも乗りかかった船である。 彼女は寝間着を脱ぎ捨て、おもむろに衣装タンスを漁り、数ある「仕事着」の一つであるビジネススーツに着替えた。 時間はもうとっくに昼過ぎである。 「それじゃ、仕事してやろうかな」 彼女にしては久しぶりに、玄関の扉を開けた―― それから彼女が、スーパーの袋を手にしながら家に帰って来たのは、18時半の事であった。 「これで当分は大丈夫か」テーブルの上に数枚の諭吉と大量の野口、それに小銭を並べて呟いた。 一体何があったのかは言うまでもないが念のため補足しておくと、少しばかり遠出して「とある親切な協力者」から生活費を貰い、その足で買い物を済ませてきたところである。 少し早いが、夕食の準備を始める事にした。 同居人は遅くなるかもしれないと言っていたが、鍋であれば帰って来たタイミングで簡単に温め直す事ができるだろう。 スーパーで上手な店員に捕まってしまい、きりたんぽを大量に購入してしまった時点で、鍋になるのは決まったようなものだった。 途中で友人の檎香からのメールが来ていなければ、調子に乗って大量のえのきまで買わされていた所だっただろう。 「背伸びしてもぎりぎり届かないんだから」彼女は椅子に乗り、衣装タンスの上に安置されている鍋が入った箱を手に取り、そっとテーブルに降ろした。 セットになっているガスコンロも設置し、同居人の帰りを心待ちにしつつ、ひとり鍋の準備を始めたのであった。 インターホンが鳴ったのは、23時を回った頃であった。 莉沙のPCでネットを眺めつつ、うつらうつらとしていた雅咲は、その音を聞いて一瞬にして目が覚めた。 同居人が帰ってきたのだ。 今日は何から話してやろうか。 「また今日も危ない橋を渡って」とかなんとか文句を言ってくるだろうか。 心躍らせながら、しかし表面上は普段通りに玄関に向かった。 「え、何……あうっ!?」 だが扉を開いた瞬間、同居人がもたれかかるようにして倒れ込んできたのは、流石に予想外だった。 莉沙の身体は心なしか熱く、慌てて額に手を当ててみる。 「これって……熱!?」そこはほんのりと熱を帯びていた。 「うー……」莉沙は何かを主張しようとするも、声にならない様子だった。 「と、とにかく、ベッドに運ぶから」 その姿は、昼頃とはうって変わって等身大の人間であり、そして同居人の莉沙にしか見せないものであった……。