4章 風見莉沙

「じゃあ、行ってきますから」 風見莉沙・25歳は、そう言って玄関の扉を開き鍵をかけると、会社に向かうべくいつもより早足で最寄駅へと向かった。 彼女は道を歩きながらNexus 5を取り出し、カレンダーのアプリを起動する。 今日の日付には特に予定は入っていない。 それは、終日会社で作業を進める事を意味していた。 折角の金曜日だし、仕事を休んでデザイン系の博覧会にでも参加して自宅に直帰したいところだったが、そんなものが都合よく開催されているはずもなく。 そもそも開催されていたとしても、最近の忙しさを考えるに、休みを貰える可能性は限りなくゼロに近いだろう。 それならばと発想を逆転し、作業に専念して出来るだけ多くのタスクを片づけよう、とカレンダーの画面を眺めつつ考えていたその時だった。 頭部に強い衝撃が走り、軽い目眩を感じてよろめきながら、やっとの思いで目の前の電柱を左手で掴んでもたれ掛かった。 どうやら、その電柱に頭をぶつけたらしい。 しばらく頭がぐらぐらして動けそうにない。 時間は通勤ラッシュの真っ只中であり、次々と通り過ぎていく通行人の視線が突き刺さる。 「……ぐふぅ」 こうして彼女の一日は、順調とは言い難いスタートを切ったのだった。 彼女が会社に到着して自席にたどり着く頃、まだ辺りは閑散としていた。 いつもより遅く家を出た上に、不幸な(というよりは自業自得な)ハプニングに見舞われたにも関わらず、である。 遅れを取り戻そうと、電車を降りてから全速力で走った結果がこれである。 「時間ってよくわかりませんね……はあ」 ぼそりと呟き、社内に設置されているコーヒーメーカーの方へと向かった。 大しておいしくないコーヒーの味が体に染み渡る。仕事開始の合図である。 彼女がメールを確認すると、悪い知らせが2通来ているのが分かった。 1通目は上司が「体調不良」により午後から出社するという旨のメール。 何故、社会人というやつは、素直に寝坊であると伝えようとしないのだろう? 100歩譲って本当に体調不良だったとしても、午後から出社などしないでゆっくり休んで欲しい、というのは彼女の持論だ。 最も、そのことを周囲に主張してみた事など一度もないのだが。 そしてメールの2通目は、件名からして「デザイン修正依頼」であり、クライアントからのものである事は明らかであった。 ふと記憶を辿ってみると、サイトで使用する王冠の画像について、ギザギザの部分に丸を付けるかどうかで揉めていたのを思い出した。 やっぱり丸は消すのかな、と思いつつ本文を読み進めていくと、とんでもない事が分かった。 「へ」 そこに書かれていたのは、サイト全体を暖色系のものに変更したい、という依頼であった。 王冠の丸を消すかどうか、どころではない。 「わけがわかりません」 彼女はPCに突っ伏してしまいそうになるのを、両肘を机に乗せる程度にとどめた。 納品物としてはもう8割方完成している状態であり、今は細かい余白や位置等の修正、未完成のアイコンなどをデザインしている最中だった。 色を変更したいということは、ベースとなる色を決定して全体の色のバランス調整をやり直し、更にアイコンの色合いも修正するという事になる。 上司はまだ来ていないので、自分で交渉をする必要がある。 「申し訳ありませんが、只今席を外しておりまして」 「わかりました……では折り返しかけて頂くようお願いします」 受付担当にそう伝えると、彼女は力なく受話器を置いた。 きっと、煙草でも吸いに行っているのだろうと思った。 断ろうと思っていたが一応、断れなかった時の事を考え、暖色系の色候補をいくつか挙げておく事にした。 Illustratorを起動し、サイトデザインを決める初期の段階で作成したモックを開くと、サイトを構成する図形やテキスト一つ一つに「それらしい」色を適用させては確認を繰り返す。 しかし、選択中のレイヤーを切り替えようと思って画面の右下あたりを操作していた時だった。 突然、何かウィンドウが表示されたと思うと、ちょうどウィンドウ上のボタンをクリックしてしまう。 「あっ」 すると、Illustratorを含む複数のソフトが一斉に終了し、再起動をし始めた。 「あー」 一瞬出てきたウィンドウは、Windows Updateを今すぐ適当するか後で適用するかを選ぶものであったと思う。 幸い、こまめに保存をしていたのでデータが失われる事はなかった。 しかし、だからこそ「保存しますか」という旨のダイアログが表示されることなくシステム全体が終了してしまったともいえる。 ちょうどその時、クライアントから電話が掛かってきた。 「お電話代わりました風見です」やや早口で言った。 「ああ風見さん?何というか、ね、やってもらえませんかねぇ」 「その話なんですけども、」 しかし、話を切り出す前に先手を取られてしまう。 「こちらも急いでるんですよねえ、あの何ていうかつい先日の会議でですね」 すっかり相手のペースになってしまっていた。 「春リリースなのにこの色合いはあのやはり何ていうかその不自然というかって話が挙がりましてね、私もそのだいぶ何ていうか盲点だったんですけどもねえ」 「はあ」 そもそも、彼女が現在担当しているWebサイトは、旅行会社のとある企画で使用する特設ページである。 このどこか鼻につく話し方をしてくるクライアントは、その旅行会社の社員だ。 冬のリリースを目標に莉沙の会社に依頼し、彼女はデザインを作り始めた。 だが、クライアントが別会社に依頼していたプログラムの方が間に合わず、春リリースに変更になったというわけだ。 「何ていうか申し訳ないかなと思う次第なんですけどもね」申し訳なさのかけらもない口調で続ける。 「修正って何ファイルくらいになりそうですかね?」 これについては全部と答えるしかないのだが、正確には全部ではなく、何より今はPCが不幸にもWindows Updateの餌食にされており確認ができない。 「それなりに多いですが」と、あいまいな回答をするしかない。 「まあほら、色を変えるだけなら簡単ですよね、何ていうか」 もしも彼女の手元に天羽々斬があったとしたら、今すぐにでもクライアントを絶命させに横浜まで行っていたところだ。 「はあ」どす黒いものを心に秘めつつも応じた。 「そういうわけで何というかよろしくお願いします、あぁ取り急ぎTOPページのデザインを確認しておきたいので、TOPを今日中マストのなるはやで」 「はい……?」 気が付くと、受話器からはツー、ツーという無機質なダイヤルトーンが鳴っていた。 彼女はしばらく天を仰いだ後、Windows Updateが終わってログイン画面で止まっていたPCを操作し、ログインする。 ふとPCの横に立てかけている小さいカレンダーを眺めていると、今日の日付には大安と書かれていた。 「なーにが大安なんですかね……」 昼休みの時間になってからも、彼女は作業を続けていた。 残りのシェイプ3つの着色が終われば、TOPページのイメージだけはとりあえず完成となる。 きりが良いところまで終わらせようと奮闘し、正午を5分回ったあたりで無事に完了した。 完成したイメージをメールでクライアントに送信し、ふぅ、と一息。 「『大安』だし、強制終了でもするかと思ったけど……しませんでしたね」PCに向かってぼそぼそと愚痴を零すと、昼食を食べに外に出ることにした。 普段はコンビニでサンドイッチなどを購入し会社で食べているのだが、今日は朝に例のアクシデントがあった為、買いそびれてしまったのだ。 というわけで外へと昼食を食べにいったのだが、「社内のエレベーターに乗り遅れる」「出口の自動ドアが自分にだけ反応しない」「横断歩道を渡ろうとすると必ず信号が点滅する」「増税による生活水準の変化についてのアンケートを頼まれる」など幾多のトラブルに見舞われることになった。 追い打ちを掛けるように、外で食べる時にいつも利用しているパスタの店は満員で追い返される羽目になり。 「私そんなに人の良さそうな顔してましたかねぇ」店のガラスに映る自分に向かって問いかけた。 仕方なく適当に空いている店を探し、ラーメン屋に潜り込む事に成功する。 だがそこは煙草の煙が充満していたり、隣でマスクもせずにゴホゴホと咳をしている人がいたりして、お世辞にもゆっくり食事が出来る場所とは言い難い所だった。 なるべく急いで食べ終わり、昼休み終了10分前には会社に戻った。 愚痴りたくなって、幼馴染み達のグループLINEにメッセージを送る。 《つかれました》 ……しかし、誰からも反応はない。既読にもならない。 寧子は昼も働いている事が多いんどあが、檎香はだいたいお昼頃なら反応してくれるはずだった。 今日は珍しく忙しいのかもしれない。 《うーうー》 とりあえず無意味なメッセージを残して、Nexus 5をしまい会社のPCと向き合った。 メールが2通来ていた。 1通目上司からのメールで、そこには「やっぱり今日は全休にします」と書かれていた。 いよいよもって、寝坊から本物の体調不良なのか、単に出社がめんどくさいだけなのかが区別できなくなってきた。 これが、どちらもあり得るのが困った話である。 社内のWebシステムでスケジュールを確認してみると、確かに今日は特に客先に向かったりといった用事もないようだが。 「とはいえ、会議はあるんですけどね……」 16時には事業部内で行う会議が控えており、1チームに1人は出ないといけない。上司が出社していれば任せられたのだが、仕方ない。 2通目は昼前にメールを送ったクライアントからの「オッケーです!!」という力強いメールだった。 早速、昼頃に終わらせておいたTOPページのデザインを元にして、HTMLとCSSの修正を始める事にした。 一度コーディングを始めた彼女の周りには、近寄りがたい空気が漂って――いたなら彼女にとって良かったのだが。 生憎そんな事はなく、他の社員から「予算申請書のテンプレートファイルメールで送って欲しいんですが」だの「検証したいからちょっとiPod touch貸してください」だの「プリンターから紙が出てこないんだけど」だの「給湯器が調子悪いんだよねえ」と声を掛けられるし最後の件に至っては確実に彼女の守備範囲外である。 「ふぅー……」 いちいち作業に割り込まれながらも、HTMLとCSSに起こす作業は16時の会議前にぎりぎり完成した。 おいしくないコーヒーを飲み干して一息。 早速、自社のサーバにアップロードしてクライアントに確認をしてもらおうと思い、WinSCPを起動しサーバへの接続を試みた。 「あれ?」 どういうわけか、サーバに接続できない。 「ああもう」この忙しい時に、と心の中で舌打ちした。 こんな時、雅咲なら何だかよく分からないけど詳しいし何とかしてくれるのに、と思いつつ。 社内インフラ担当に連絡を入れると、すぐに症状を確認しに彼女の席へとやってきた。 エラーメッセージを見るなり「再起動してきますんで」と言い、サーバールームへと消えていった。 その間、手持ち無沙汰になった彼女は何度も再接続を繰り返し、4回ほど繰り返したところで接続に成功した。 報告にやってきたインフラ担当に軽く礼を言うと、WinSCPでブックマークしていたディレクトリに移動し、ファイルをアップロードした。 まずPCでGoogle Chromeを使い、テストURLにアクセスして確認を行う。 それから私物のNexus 5で確認し、更に音楽プレイヤー兼デザイン確認用iPod touchを社内LANに接続して確認し、一通り問題なさそうだったのでクライアントにメールを書いていたその時だった。 「風見さん?」 「ひゃい」 突然の事にびくりとして振り向くと、たまにどこかで見るような顔の人が立っていた。 顔を覚えるのがあまり得意な方ではないので、必死で脳内の記憶を辿っていたら。 「会議もう始まってるので、来て下さい」 彼女にとって、特に意味の無い会議が終わったのは、18時半の事だった。 当たり前のように定時の18時を過ぎている事には慣れているものの、「とりあえず」出席させられて時間を浪費するのはどうにも我慢できないものがあった。 「これだけの時間拘束する意味あるんですかねえ……」 メールを確認すると、クライアントから「いいですね!では他のページもお願いします!あと全体に言えるんですけど白の丸い奴、雪のイメージなんで春仕様という事で桜に変更をお願いします!」というメールが17:52に来ていた。 彼女は神妙な顔をしながら、定時の1時間前になったら新たにタスクを振る事を法律で禁じて欲しいと願った。 ふと、頭が少し熱っぽくなっているのを感じ、頭に手を当ててみたところ…… 「……」確かに熱っぽい。 リラックスもできない場に無駄に拘束され、疲れたのだろうと思った。 幸か不幸か手元に体温計がない為、彼女の体調が数値化される事はなく、残った業務を進めることにした。 Illustratorでの作業は順調に進んでいた。 Google画像検索で桜の写真を拾ってきて参考にしつつ、自分なりにアレンジを加えてベクターイラスト化。 そして完成したものを実際に使ってみると、それほど悪くはないのだけれど、つい指示されていない別のアイコンについても修正を加えたくなってくる。 その欲を抑えきれず新規ファイルを作り始め、作業は乗りに乗ってきて――時間も忘れ没頭した。 そこはまさに彼女の独壇場だった。 社内の半分以上の人々は退社しており、彼女の作業に水を差すような人もいない。 だが、無慈悲なダイアログの出現により、壇上から引きずり下ろされる事になる。 そこには次のように表示されていた。 「Adobe Illustrator CS6 は動作を停止しました」 彼女はがっくりとうなだれ、PCに向かって普段言わないような罵声を矢継ぎ早に浴びせた後、帰る準備を始めたのだった。 ひとしきり罵声を飛ばしたおかげか、すっかり身体が火照ってしまった。 帰ろうと扉に手を掛けたら上司とは別のお偉いさんと出くわし、先程の声が聞かれていなかったか気にしつつ、帰路につくのだった。 最寄り駅に到着した頃、時間はもう23時近くを回っていた。 火照った身体に夜風が妙に冷たく感じられ、寒気すら覚えるような状態。 会社を出たばかりの時はまだ興奮していたし、電車の中はもう春が近いというのに妙に暖房が強いな、程度に思っていたので気にしていなかった。 彼女はようやく、自分の身体が明確に熱を帯びている事に気付いた。 「うう……」よろめきながら自宅へと歩みを進める。 生物の帰巣本能とは、何だかんだ言ってすごいもので、次に意識を取り戻したのは自宅のインターフォンを押した瞬間だった。 扉が開き、留守番をしていた同居人、雅咲の顔を見た瞬間。 「うー……」帰って来られたという安心感から力が抜けて、倒れ込んでしまった。 それから彼女は意識がなかったのだが、頭の不快感から覚醒した。 「気が付いた?」目を開けると、そこには見知った天井、そして視界の端には心配そうな雅咲の顔があった。 額のあたりにゴロゴロしたものが置いてあって痛いし、冷たい。 どうやら冷蔵庫の氷をそのまま入れているようなのが分かった。 「……あの」喉も少し痛いが、なんとか声を出す事ができた。 「雑ですよ、もう」 目の前の雅咲はぽかんしていたが、唐突に頬を膨らして「うるさいわね」と言ったかと思うと「じゃあどうすればいいのよ」と居直った。 「いや、せめてタオルの上に乗せるとか」 「これからやろうと思ってたし、少し待ってて」 雅咲はそう言うと、洗面所の方へと向かい、小走りで戻って来た。 折り畳んだタオルを莉沙の頭に載せながら、「あ、そうそう」と話し始める。 「何ですか?」 「久々に皆で集まる事になったわ」 「はい?」 莉沙は、この状況で?と思ったが、まだどうにもうまく頭が回らない様子である。 「お見舞いパーティってことで。皆来てくれるみたいだから」 「う、うーん」 莉沙の朦朧とした意識が再び闇に沈んでいく瞬間、久しぶりに雅咲の楽しそうな横顔を見たような気がしたのだった。