5章 自宅遊撃隊

午前7時を回った頃、莉沙はベランダにたむろする鳥のさえずりで目を覚ました。 休日は大体9時近くになってようやく起きる莉沙が、何故そんな時間に目覚めたのかといえば、いつもより早く寝たからに他ならない。 いつもの金曜日であれば大抵夜中の2時くらいまではぐだぐだと起きて、趣味のWebサイトを閲覧したり刀剣を乱舞させたり雅咲と他愛のない話をしたりして過ごしているはずなのだが、昨日はいかんせんそんな事をしている余裕がなかった。 熱を出して倒れた事を思い出し、タオルと水の入った袋を取り払って額に右手を当ててみた所、だいぶ熱が下がっているように感じた。 目覚めも悪くないしこのまま布団にいる理由もないと判断した莉沙は、身体を起こそうとしたものの、左腕が何かやわらかいものにぶつかった。 一体何なのかと思って顔を向けると、そこには莉沙の布団にまとわりつくようにしてすーすーと寝息を立てる同居人の姿があった。 「み、雅咲……?」 いつも雅咲の方が早く起きているし、土日であれば尚更である。 こんな事は滅多にない事だ。 以前、人気の高い展示会――例によって刀関連のものだ――へと並びに向かうべく5時起きした日を除いて、だが。 恐らく莉沙が眠った後も、しばらくの間看病し続けていたのだろう。 そう思うと、莉沙の頭は急に申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになってきた。 「……子供ですか、貴女は」 雅咲の布団をかけてやると、大きめのベッドからそそくさと脱出した。 朝食を食べ、もとい探そうと冷蔵庫に手をかけた時、視界の端に見慣れない灰色のもの――鍋が置いてあるのを発見した。 中を見てみると、どういうわけか、これでもかというくらいきりたんぽと豆腐が入っていた。 まるでセンスの欠片も感じられない盛り方だと評価すると共に、雅咲の仕業であると確信した。 端の方だけ抉るように具材がなくなっているのを見るに、その部分だけ雅咲が先に食べたのだろう。 丁度良いので、莉沙はこれを朝食替わりにしようと思い、鍋の蓋を取って具材を皿によそってみる事にした。 しかし、すぐに異変に気付いた。 「いくらなんでもこれは……」 敷き詰められた豆腐の下にわずかながらネギや白菜、鶏肉を確認できたものの……。 「もはや誤差みたいなもんじゃないですか」 ともあれ、味見程度の量をよそった後、それを口に入れる。 「冷たい……」 当然だった。 昨日の朝の時点でなかったものが今存在するのだから、昨日の夜に作られたものだとしても、それから一体何時間経っているのだという話である。 単にまだ寝ぼけているのか、風邪が治りきっていないのか定かではないが、もう数日は風邪薬のお世話になった方が良さそうだと思った。 莉沙は鍋の下にあるコンロを操作し、パチパチと音を立ててそれに点火した。 ぼーっと鍋を眺めていたところ、横からいつもの声が聞こえてくる。 「あれ、起きてたんだ……おはよ」まだ寝ぼけ顔の雅咲だ。 「ん、おはよ」 「よっこいしょと」起き上がり、のそのそとベッドから出てくる雅咲。 「なに年寄りみたいな事言ってるんですか」 「甘いわね莉沙」ニヤリと笑った。「今のは『これから筋肉を使います』っていう掛け声。こうすることによって、無意識のうちに腰の負担を減らす事ができるんだから」 「はあ」 「腰痛の防止になるのよ。どう?博識でしょう」えっへん、とでも言わんばかりの顔で見つめてくる雅咲。 「でも、そういうのが必要な時点で何だか年寄り臭くて嫌ですよ」 年寄りを連呼され、流石に慌てる雅咲。 「あ、貴女は無理し過ぎなの。自分の家の中でくらい、つまらない意地張らない方がいいと思うんだけど」 「そうですね、私の家ですし」 「うう」 「ところで」雅咲が鍋を指して言った。「それ、朝食にでもするつもりだった?」 「ええ、まあ」 「んー、今食べてもいいっちゃいいけど……10時にみんな来るし、みんなの分はとっておいてよ。あ、もちろん私の分も」 きょとんとする莉沙。 そもそも、この鍋の中身は一度に食べ切れるような量ではない。 それに、みんな来るとは一体どういう事なのか。 みんなとは誰か、と本調子になっていない頭で考えを巡らせる。 見かねた雅咲が改めて説明した。 「寧子と檎香が10時に来ることになってるから。私が連絡つけといた」 「はあ、そうなんですか……って」少しの間。「そうなんですか」 「なのよ」 「どうしてまたそんな」 「みんな心配してたわよ」適当にはぐらかすように答える雅咲。 「いやそもそも貴女が言わなきゃ心配もしないでしょうに」 「ま、とにかくそういう事。じゃー私は朝風呂ってくる」 「鍋は」洗面所の方へと向かっていく雅咲の背に問いかける。 すると一言。 「言ったでしょ、食べてもいいし、食べなくてもいい」 「はあ」 すっかり温まった鍋の前に一人残され、莉沙の腹の虫がぐうと鳴った。 ◆ ◆ ◆ 新宿駅地上某所。 寧子、檎香の2人は、最初こそ新宿駅を待ち合わせには使わない方針で考えていたものの、やはり買い物には便利だからという話になって妥協したようだ。 待ち合わせの場所に少し早めに着いた寧子は、檎香とLINEで会話を行っていた。 《あと何分ー?》 近年の電波状況の改善もあって、地下鉄にいようとスムーズに返事を返す檎香。 【5分ちょいかかるかも】 《おっけー》 《何買うとかって決めてる?》 お見舞いに行くとはいえ、女が4人集まればそこはもう女子会である。 となれば、恐らく動けないであろう病人とその付き人の為に、自分達が買い出しに行くというのは暗黙の了解だ。 【そだねー】 【ケーキとか買ってこ?】 《いいかも》 《あとお菓子とか》 【うんうん】 そんなやりとりをしていた寧子に、見知らぬ男が3人近寄ってきた。 男達は、それに気付かず返信を待っている寧子に話しかけた。 「ねえ、いま暇?」 「うえ?私?」 面倒そうな奴に遭った、と寧子は思った。 待ち合わせしてるのが分からないのか、と言いかけて流石に思い留まった。 「ちょっと遊びにでも行かない?」 「えーと……」 アルバイトで接客ならしょっちゅうやってはいるものの、普段はあまりこういう機会はなく、たじろぐ寧子。 「カラオケでもどう?」 「会話しようぜ、会話!」 「てかLINEやってる?」 辺りに助けを求めようにも、人々は我関せずといった様子でただ通り過ぎていくだけで。 どうするべきか分からなくなってしまって俯いていたら、前の方から声が聞こえてきた。 「やほー寧子ーひさしぶりー!」 それは、男達の間にずかずかと入ってくる檎香だった。 その態度に少し驚きつつも「お、友達?君も良ければ一緒に……」と言ってくる男を遮って、檎香が一言。 「私の彼女に手だされちゃ困りますよお。じゃあ寧子、いこ?」 さらりとそう言い放つと、唖然とする男達を背に素早く立ち去ったのであった。 「周りの目がちょっとだけ痛かったんだけど……」 駅地下に向かいながら、寧子は率直な感想を述べた。 「気にしない気にしなーい」 「寧子ちゃんもさ、本気出せばあんなの簡単に倒せるのにねえ」 「いやいや、倒すって。ゲームじゃないんだから」 寧子は自他共に認める怪力であり、アルバイトでもそれを生かしていたりするのだが。 「ここで生かすのはまずいってば」 今回はそれを生かす場面はなさそうである。 「あははー」 そんな事を話しつつ、2人は檎香おすすめのケーキ屋へと向かっていた。 だが、檎香が「あそこー」と言って指した先を見て、寧子が急に足を止める。 「どしたの?」疑問に思った檎香が心配そうな顔で寧子を見た。 それに対して複雑な顔をした寧子が口を開いた。 「その……あそこって私が2ヶ月前に辞めた所で……」 「あぁ」合点がいった様子の檎香。「なるほどねえ、あはは、それは気まずいね」 それならば、と次点の店に向けて歩き出した檎香だったが、寧子が恐る恐る訊ねてきた。 「ねえ、もしかして今行こうとしてるのって」 「ラ・オ・ブランシェってとこだよお。この間TVでもやってて……」 「ご、ごめん」寧子は心底申し訳なさそうな顔で。「そこもちょっと」 「経験豊富だねえー」察した檎香が目を丸くして答えた。「それじゃあねえ……あ!」 何かを思いついたらしい檎香は、唐突にiPhoneを取り出した。 「どうしたの?」 「ケーキが(買え)ないなら作ればいいじゃない!って思ってねえ」 「えっ」寧子は、その発想はなかった、と言わんばかりにぽんと手を叩いた。 普段からしょっちゅう家でケーキを作って(は一人で食べて)いる、檎香らしい発想ではある。 やがて通話が繋がったらしく、檎香はiPhoneに向かって喋り始めた。 「もしもしみさきちー?」 『何よ、道でも分からなくなった?てか、その呼び方はいい加減に』 「道具があるか見てほしいんだけど」 『道具?何の?』 「えっとね、まずボウルと、それからオーブン……」 『は?ボール?なんでよ、訳分からないんだけど。ボールとオーブンに何の関係があるのよ』 これは時間が掛かりそうだ、と思った檎香は、小声で寧子に材料だけ先に買うように頼んだ。 「おっけー」寧子はネットで適当に材料を調べながら、地下街へと消えていった。 その後、2人が大量のビニール袋を持って莉沙宅に辿り着いたのは、指定の時間から40分以上経過した後の事であった。
「全くもう」雅咲は毒づいた。「どうしてお見舞いにミキサーやらの確認が必要なのよ」 突然檎香から電話で頼まれ、言われた物を求めてキッチン周辺を引っかき回す羽目になり、くたくたになった雅咲は部屋に転がるソファに背中を預けた。 「というかですね、用途は聞かなかったんです?」 すっかり調子を取り戻しつつある莉沙が、PCを電源をいれながら訊ねてくる。 「だって、次から次へと言ってくるんだもの」 「はあ」 「なんていうか、自分のペースに乗せるのが得意っていうか……」 「仕事柄慣れてるんでしょうね」PCから起動時の効果音が鳴ったのを確認した莉沙は、PCの方に向き直る。 「はー、まあいいわ」雅咲もソファでごろごろ転がりつつ、携帯をいじり始めた。 集合の時間まであと30分程度だったが、雅咲はそういう短い時間でもまめに「仕事」を探すよう心掛けていた。 しばらくの間マウスをカチカチ押す音が鳴るだけの静寂を、唐突に打ち破ったのは莉沙だった。 「どうしてマウスの線が切れてるんですかっ」 PCに接続されているマウスの使い勝手が違う事に違和感を覚えた莉沙が、無残な状態で転がっていた元のマウスを見て指摘した。 雅咲は「似たようなのを選んだつもりなんだけどな」と呟き、仕方なく説明を始める。 「いや昨日、なんか刀が落ちてきて……それで、さくっと。私悪くない、悪くないわ」昨日の事を思い出したのか、震え声で応じる雅咲。 「そんな偶然がありますか」 「事実は小説よりも奇なり、って言うでしょうに」 「奇怪過ぎます」 「ていうか莉沙、もうすっかり元気?なんか普段通りPCいじってるし」 「いえ、別の意味で頭が痛くなってきたような……」 インターフォンの音が鳴ったのは、10時46分の事であった。 寝転がって携帯をいじっていた雅咲が起き上がる。 「ん、ようやくか……遅かったわね」インターフォンに駆け寄り、画面を確認してみたところ、久々の幼馴染2人が手を振っていた。 その小さい画面からでも、何やら色々と荷物を持っているのが窺える。 玄関に向かおうとしたら、相変わらずPCを操作していた莉沙が何やら文句を言ってくる。 画面を見るに、ニュースサイトやらまとめブログを複数タブを駆使して眺めていたらしい。 「あの、まだ寝間着のままなんですけど」 「時間は言っておいたのに、っていうか予定をこんなに過ぎてるのに」 冷静にそう言い放つ雅咲。 「忘れてたんです」 「貴女、家だとほんと抜けてるわね」 「う、すみません……」素直に謝る莉沙。 「ちなみに昨日貴女を着替えさせたの、私だから」 「はあ」 ともあれ、莉沙は玄関前の彼女達を招き入れるのを少し待って貰おうと相談しようとしたのだが……。 「今でるー」雅咲はインターフォンのマイクに向かって話しかけ、玄関へと向かって行った。 「待って」 「待たん」 「おじゃまします」そう言って、大量の荷物を手に部屋へと入ってきたのは寧子であった。 「しまーす」続いて檎香も入ってくる。 いかにも軽そうな菓子の袋が満載のビニール袋を2つ持っていた。 寧子達が莉沙宅に来たのは、別に今回が初めてというわけではない。 2人はまるで自宅でくつろぐかのように、テーブルに荷物を置いて椅子に腰を下ろした。 「ところで」タイミングを伺っていた雅咲が、檎香に詰め寄る。「一体、何買ってきたのよ、随分遅れたようだし」 「えへへ」 「えへへじゃない」 不満を隠さずに応える雅咲。 「3人で作ってみようと思ってたんだけど……」マイペースな檎香に代わり、寧子がフォローを入れる。「莉沙ちゃん元気そうだし、一緒にやろっか!」 「はい?」 「あ、ケーキ、ケーキ作りしようと思って」 「はあ……」 唖然とする莉沙を尻目に、電話でのやりとりを含め全てを把握した雅咲は「そ、そういう事か……」と呟いた。 まだピンと来ていない莉沙の為に、一通り説明してやった後に。 「まあでも、たまには面白そうね。ほら莉沙、準備準備、ってか早く着替えなさい」 「えー、もういいんじゃないですかね、着替えなくても」 冷静に指摘する雅咲に対し、もはや開き直った様子で投げやりに言う莉沙。 「ぷふっ」2人温度差に、思わず寧子が噴き出した。 「そのままの方がなんか病人っぽくていいかなあ」檎香が率直な感想を零す。 「そっか、一応お見舞いだものね、まあ手伝ってもらうけど」 「う」 莉沙に向かって3人の鋭い視線が刺さる。どうやら観念したようで、ゆっくり立ち上がった。 「全く、病人使いが荒いんですから……」 まずはテーブルの中央に陣取る、きりたんぽだらけの鍋を片付ける所から始まった。 ◆ ◆ ◆ 薄力粉や砂糖などの材料を計る事になり、雅咲がキッチンの棚からデジタル計量器を取り出した時、莉沙が気まずそうな顔をしたのを見逃さなかった。 「どうかしたの?」 目ざとく指摘する雅咲に、莉沙は観念したように答えた。 「それ、壊れてるんですよ」 「え」 「この間、床に落としたらなんかボタン押しても基準が定まらなくなりまして」 莉沙はそう言いながら実際に試してみせた。 電源を入れると、計量器の上に何も置いてない状態で液晶画面には何故か191gと表示されており、しかもその数字はリアルタイムで変動している。 それを見た檎香が、あははと笑いながら一言。 「これはダメだねえ」 雅咲は、役立たずのそれを燃えないゴミの箱に放り込んだ。 お菓子作りは計量が鉄則、とは誰が言った事だっただろうか。 その言葉に真っ向から喧嘩を売るような行為が、今まさに行われていた。 「私の勘だとこれくらいなんだけどねー」 檎香が皿に目分量で薄力粉を盛るのを、不安そうに見つめる寧子。 「檎香ちゃん、いくら作り慣れてるっていっても……大丈夫かなぁ」 「全くもう、計りが壊れているだなんて聞いてないわ……」と、莉沙を睨みながら言う雅咲。 莉沙はばつが悪そうに目を背ける。 「まあ……言わなかったですからね」 「莉沙ちゃんそこ開き直るとこ!?」 幸いにも、自信満々の檎香によって計量は実にスムーズに進んでいった。 計量済みの材料がテーブルにズラリと並ぶ中、寧子がボウルに卵を入れ、それをハンドミキサーで混ぜ始めた。 莉沙が東京に引っ越してきてから数える程しか使っていないハンドミキサーは、バッテリーが自然放電して切れていた。 その為、コンセントに繋いで充電しつつ使う事になった。 「あの」それを見ていた莉沙が声をかけた。「どうして電源入れないんですか?」 このミキサーは5段階の速度調節ができるようになっているのが、寧子の手元を見ればすぐに確認できる。 しかし、電源を入れずにひたすら卵を潰しているのを見て、気になったようだ。 寧子は手慣れた様子でガシガシと手を動かしつつ答えた。 「最初から回転させると卵がはねて大変になるから、こうやって潰して混ぜてミキサーを卵の中に沈めてから電源を入れて速さを調節してくんだ」 「そうなんですか」 「うんうん」 「知ってました?」唐突に雅咲に話を振る莉沙。 「も、もちろんよ、少しは想像力を働かせなさい」 「むう」 寧子がハンドミキサーの電源を入れて混ぜ始めると、すぐに卵は泡立っていく。 「ある程度泡立ってきたら少しずつ砂糖を入れるんだよー」檎香はニコニコしながら雅咲に促した。 砂糖が盛られたコップを手にして凝視する雅咲。 「どうしたの?変なの入ってた?」寧子はミキサーをゆっくり回しながら尋ねた。 ミキサーがボウルにぶつかってごりごりと音を立てる。 「いや、白いわ」 「砂糖は白いものですよ」 「茶色いのもあるよー?」 「そうなんですか」 「紛らわしいわね」 改めてコップの中身を見ながら、うんうんと唸る雅咲。 「みさきち早くいれて?」ミキサーを斜めに傾けて待つ寧子が催促してくる。 「あ、うん」 10分弱経過したところで、ボウルの中身はすっかり白くなってきていた。 それを見た檎香が満足げに頷きながら「うん!これでストップ」と指示する。 寧子がミキサーを生地から取り出すと、ビーター(※撹拌する部分のこと)に生地がくっついているのが確認できた。 それを見るなり莉沙が目を輝かせる。 「あ、あの、それ」 「どしたの?」 「舐めてもいいです?」 「これを?」奇妙なものを見る目で問いかける寧子。 雅咲に至ってはどん引きして無言で後退している。 一瞬の沈黙の後、檎香が納得したように口を開いた。 「あぁ、そっか!生クリームと勘違いしてるんだねー」 「え、違うんですか、白いのに」生地が付いたそれを受け取ろうと、手をぷらぷらと動かしてみせる。 「莉沙は白ければなんでも生クリームなわけ?」 「そ、そんな事ないですし」 指を突き付けたりしながら無駄な応酬を続ける2人を横目に語る、寧子と檎香。 「ほら、親の手伝いで生クリーム作ってる時に終わったら舐めさせてもらえるやつとかー」 「あー、あるある、それね」 「うんうん」 「裏側なめるときに舌がつりそうになってね」 「そうそう!寧子分かってるねえ」 「やるよねー」 子供のようにはしゃぐ2人だったが、お菓子作りの鉄則は時間厳守である。 「あ、そろそろ薄力粉まぜてかなきゃ」 「ココアもね!」 そう言って寧子がココアの缶をテーブルに当てカンカンと鳴らすと、先月の電話代について言い合っていた2人がようやくこちらの世界に戻ってきた。 半球状の金網に盛った薄力粉の中でへらを滑らせふるいにかけて、少しずつ生地の上に落としていくのは雅咲の担当だ。 ボウルの周りはいつの間にか白い粉が散らばっていた。 「……」 雅咲の表情は至って真剣だが、つい勢い余って金網の上から薄力粉がはねてしまう。 「ちょっと、こぼしすぎですよ」 莉沙が厳しく指摘するも、表情一つ変えずに雅咲が応えた。 「……自宅を汚して何が悪いか」 「もうやだこの居候」 檎香は先程時間をかけすぎた事の反省からか、iPhoneのタイマーでカウントしながら雅咲を急かす。 「ほらほらなるべく早くだよー」 寧子はキッチンでバナナを切りながら「がんばれがんばれ!」と声援を送る。 雅咲は声援と冷たい視線を一手に受け、ついに最後の粉を投下させることに成功した。 「……ふぅ、完了よ」 一仕事終えた爽やかな顔で、莉沙に次の作業を任せるべく、へらをバトンタッチする雅咲。 「テーブルが甚大な被害を被ってます!」主に雅咲の手元から溢れた白い粉によるものだ。 「犠牲はつきものよ」 「拭けば大丈夫だよ莉沙ちゃん!」 「よく見るとテーブルの下にも落ちてます!」 「うわぁ絨毯かあ、大変だねえ……」 檎香は他人事のように手を合わせた。 莉沙がへらを使って生地と薄力粉を混ぜ合わせていると、すぐにある疑問を抱いた。 非常に腕が疲れるのである。 「あのこれ、地味に体力使いません?」と檎香に訊ねる。 「ここは早めにやらないとね、生地が悪くなっちゃうからね、ほらがんばって!」 「こ、答えになってないんですけど?」腕をぷらぷらと振って疲れを取りつつ答えた。 檎香は更に「でも早く混ぜすぎると空気がなくなって膨らまなくなったりもするからねえ」とも言い、ついでのようにがんばれーと付け加えた。 「大変ね」「そだねー」遠くで雅咲と寧子の声が聞こえてくる。 ある程度混ぜ合わさったところを見計らって、先程寧子がカットしたバナナが一斉に放り込まれて、へらは更に重さを増した。 「皆さんもうお見舞いとか考えてないでしょう」 「でも莉沙ちゃんなんだかストレングス高そうだし」 「意味わかりませんし、っていうかこれ何ケーキなんですか?」 「カップケーキだよ?」当然、と言わんばかりに檎香が答えると。 「……何かおかしいと思ってたんですよ……生クリームないし……」 「判断基準がそこなんだねえ」 後はオーブンで熱するだけである。 大きめのスプーンを使って生地を掬い、それをカップ状の型に入れていく。 この作業は全員で行う事になった。 「ちゃんとバナナが入るようにするんだよお」檎香が軽く注意点を伝える。 「あれ、ここにあるやつバナナ入れましたっけ……」そう言って自分で入れたカップを指す莉沙。 「せっかくだしバナナ入ってないと寂しいよ?」 「うーん、でもその分他にいっぱい入るんだし誤差では」 すかさず雅咲が指をびしっと莉沙に向けて問う。 「じゃあ莉沙、貴女がカップケーキを食べた結果、自分のものだけバナナが入っていない事が分かったとする」 「はい」 「どう思う?」 「損した気分」即答だった。 「そういう事よ」 「はい……」 ――莉沙は、慌ててバナナを探しに生地へとスプーンを突っ込んだ。
生地を入れたカップを並べた板をオーブンに入れ、190度で加熱を開始したところで作業は一段落……かと思いきや。 「片付けが終わるまでがお菓子作りだよお」 まだ、使った調理器具を洗い、片付ける作業が残っていた。 「このボウルとか、次に使われるのは何時になるんでしょうね」 片付けながら莉沙は、改めて自宅にこれほど色々な器具があった事に驚いていた。 「それにしてもさ」寧子が同じ事を訊ねてきた。「なんでこんなに色々ものが揃ってたのかな?」 「うんうん、莉沙ってあんまりこういうのしない方なのにねえ」檎香も同意見のようだ。 「そうですねえ……多分私は買ってないと思うので……」 莉沙がちらりと思い当たる人物の方を向いたところ、雅咲はこほん、とわざとらしい咳払いをする。 「私が持ち込んだとでも?」 「違うんですか?」 「……合ってるけど」眼力に負けた雅咲、あっさり白状する。 檎香が「ええー!」と驚いたものの、寧子は少し意外そうな顔をしながらもそこまで驚いた様子はない。 「みさきちってさ」寧子が口を開いた。「何でもできる人……みたいなポジションだったし、こういうのもやるのかなって、思っただけ」 「何でも出来る人って」莉沙が反応する。「昔の話でしょう」 「まあそうなんだけど……ね?」寧子はそう言って雅咲の方を見る。 「いいから、さっさと片付けるわよ」雅咲は、俯きながらそう答えるだけだった。 「はーい」 時計の針は、丁度昼の12時を回っていた。 片付けを終えた4人は、キッチンの隅に追いやっていた鍋を持ってきてテーブルの中央まで戻した。 「お腹空いたし、丁度いいね」寧子がコンロを操作し、点火する。 「うーん、またこれですか」 流石に朝食べたばかりというのもあって、あまり気が進まない様子だ。 「莉沙はさっき食べたの?」 寧子が訊ねると、莉沙は味について淡々と語った。 「はい、……まあ、ふつうでしたよ、雅咲が作ったものらしいですから」 「素材の味をそのまま使っているから、当然よ」胸を張ってみせる雅咲。 「そのまま過ぎるんですよね……」 「ものは言い様だねえ」 「あと、昨日作ったやつだからそろそろ食べきった方がいいわよ?」 などと話しているうちに鍋は温まり、しばらく皆で同じ鍋をつつくのであった。 「まっだかなー?」 お昼を食べ終わり、近況について適当に駄弁っていた4人。 途中で檎香がオーブンを見にいったものの、焼き上がりにはもう少し時間が掛かりそうだった。 その様子を見るなり、雅咲が棚から煙草を取り出しに行った。 「ちょっとヤニ吸ってくるわ」 「んー」莉沙が適当に応じた。 雅咲が朝起きてから今まで一度も煙草を吸いに行かなかったのは、かなり珍しい事である。 莉沙は、変わった事もあるものだと、内心彼女を褒め称えた。 ベランダの方へと消えていった雅咲を見ていた3人だったが、寧子が急にそわそわとし始めた。 「どうかしたの?」檎香が訊ねる。 寧子はバッグから何やら白い箱を取り出した。 「ええと……わ、私もヤニ吸ってくるね」 そう言っていそいそとベランダに向かう寧子を、2人はぽかんとしながら見送った。 ◆ ◆ ◆ 雅咲はいつものようにベランダの戸を両手で力を入れて締めた事を確認すると、ベンチに腰掛けた。 煙草に火をつけたところで、不意に背後の戸が開く音が聞こえ、振り返る。 「……ちょっと、分煙しないと怒られるから――」 言いかけて、驚きの余り思わず目を見開いた。 「あ、ごめんごめん!」 意外にも、寧子が煙草の箱を持って目の前に現れたのである。 寧子はベランダの戸を締め、雅咲の隣に座った。 「えへへ」煙草を手に早くも満足げな寧子。 対して雅咲はというと、戸を指しながら重要事項を指摘した。 「ちゃんと締まってないわ、そこは少し力を入れないと……」 このベランダの戸は、少し強めに力を入れないと完全には締まらないのである。 「あわわ」寧子は頭を下げつつ、立て付けの悪さに定評のある戸を片手で締めてみせた。 「……」 やはりこの子は怪力。 時代が違ったら戦士でもしていたのではないだろうか、雅咲はそう思った。 それはともかく。 雅咲は煙を吹かしながら、物珍しそうに寧子の方を見る。 その手には未だに煙草の箱が握られており、寧子の方も雅咲の手元を凝視していた。 そんな様子に疑問を持った雅咲が先に話しかけた。 「何?吸わないの?」 「え、あ、そっか、吸ってみるの忘れてたよー」 そういえば、寧子が煙草を吸うなどという話は雅咲にとって初めて聞く事である。 しばらく眺めていると、寧子は何を思ったかチャッカマンを取り出した。 またしても突っ込む雅咲。 「いやいや、おかしいだろそれ」 しかも、手がぷるぷると震えてうまく着火できないようだ。 「ライター使いなさいよ、ライター」 自前のライターを差し出すと、寧子の表情がぱあっと明るくなった。 「さっすがみさきちー!」 寧子は早速煙草に火を付け、そして……。 「ごっほごほっ」「……大丈夫?」 「今度いいの教えてえぇ……」寧子は涙ながらに訴えた。 「良いのっていうか、まず吸い方からね」 青空の下、飾り気のないベランダに腰掛ける2人。 寧子も多少は慣れてきたのか、落ち着いた様子で煙草を吹かしている。 「それにしても意外ね」雅咲が呟いた。「喫煙者は私だけだったというのに」 この4人組の中で、というのは敢えて言うまでもない。 「ほら、私ってあんまり物事が続かないから」改めて雅咲の方を向いて言う。「みさきちもやってるこれを私もやってみようと思って……」 「土佐日記か」 今日は何かと突っ込み役に回ることが多い。 「これは続けられるっていうか、つい不覚にも、続いちゃうもんだからなあ」 「あー、言われてみれば」 「自分の意志で何かを続ける、っていうのとはちょっと違う気がするのよね」 「ふむふむ……」 「別に私の模倣をすればいいってもんじゃあないわ」 「……」 「まあ趣味の事とか、メールで相談してくれるのは……べ、別に悪い気分はしないけど」 寧子に趣味についての相談をされるたびに、長文のアドバイスを送っていたのを思い出し、少し顔を紅潮させる雅咲。 「良かった、ちょっと迷惑かなって思ってたんだけど……」 「でも、何でまた私?」 「えっ?」 「その……趣味の相談とかするならもっと適任者っているんじゃない?」 「さっきも言ったけど……あ、ここに捨てればいいんだよね?」 寧子が灰皿に煙草を押しつけ、ふぅと一息吐いた。 「やっぱり私、みさきちって何でもできる凄い人って風に思ってるんだよね。それこそ幼稚園で一緒になった時からずっとだよ」 つい、目をそらす雅咲。 「小学校、中学校って上がっても、何でもできるみさきちは私のヒーローだったんだ」 「そういえば高校、わざわざ私についてきたのは貴女だけだったわね……」 「うんうん!」 「……これはね、あいつ……莉沙がいないからこそ言うんだけど」 雅咲は一際大きく息を吐き、語った。 「女は何でもできなきゃダメだ、って言ってたあの先生がね、子供心にすっごくカッコ良く見えたのよね」 「それって……」 「よ……幼稚園の」 「……そっかあ」寧子も20年以上前の事を思い出して、しばし感傷に浸った。 雅咲は煙草を灰皿に押しつけて立ち上がり、口を開いた。 「ま、どうやら私に菓子作りってのは難しかったみたいだけど」 「いまのこと、檎香達に言ってみてもいい?」 「だめ、言ったら殺すわよ」 目が笑っていない雅咲、だが寧子はそれを軽く受け流して。 「じゃあもう少しだけ、私のヒーローでいてよ、ね?」 「いいけど……貴女もいい加減大人になりなさいよ?」 2人は小さく笑った後、ベランダの戸を開けた。 ◆ ◆ ◆ 「寧子もヤニを……煙草吸うようになったんですね」 ぽかんとしたまま、莉沙が呟いた。 檎香もうんうんと頷きながら応える。 「ねー、知らなかった。私は仕事もあるし煙草は吸わない方がいいかなーって」 檎香は職業柄、肺への影響が気になるようであった。 「ああ、貴女はコールセンター勤めですからね」 少し言葉を交わした後、しばらくテーブルを挟んで向かい合う2人。 しかし、唐突に檎香がきょろきょろと部屋を見回した後、先程まで雅咲が座っていた椅子に移ってきた。 「な、なんですか?突然」パーソナルスペースまで入って来た檎香を見て、たじろぐ莉沙。 檎香は妖しく笑って言った。 「それで、みさきちとはどんな感じなの?」 「はい?」 思わず素っ頓狂な声をあげる莉沙。 「だからー、どんな感じなのかなって」 「どどどうもしてないですけど!?」 「どうもしない事はないでしょー」意地悪な目つきで莉沙を見つめる檎香。 ベッドの上に無造作に置かれたタオルやら水袋が置かれているのを指して、言葉を続ける。 「今日もちゃーんと看病されてたわけだもんねえ」 「そ、それくらいは居候として当然というか……ええと、義務……みたいな」 だんだん言葉に勢いがなくなっていく莉沙。 「そういえばよく見ると布団が同じだねえ」 「それはその……最初は2つあったんですけど……そうだ!刀を置く場所を取りたくて1つのベッドにしたんですよ」 「そっかあ」 少し残念そうに言いつつも、にやにやしながら檎香は続けた。 「じゃあみさきちのどこがダメなの?」 「え?そ、そうですね……」 本気で考え始める莉沙を見て、檎香は内心笑いを堪えるのに必死だった。 「ええと……まずお金がかかるところでしょうか」 「お金が?」 「人が1人生活するにはお金がかかってしまうものなんですよ」 「かかるよねえ」 「それでですよ、生活費を稼ぐために一人で勝手に物騒な事に顔を突っ込んで……全くもう、世話が焼けるったら……」 「ふんふんそれでそれで」 檎香はひたすら笑いを堪える事を強いられていた。 「あとはご飯ですね、ご飯を作ってくれるんですけど、そこまでおいしいわけでもないし……私が別に作らなくてもコンビニで買って済ませるといっても聞いてくれなくて……健康がなにがしと」 「うんうん?」 声がうわずってしまったものの、莉沙はもう自分の世界に入っているようで無視。 「そう、一番迷惑なのは貴女も言ってましたけど寝る時です、私がゆったりと大きめのベッドで寝てたら雅咲ったら『迷惑だろうから』なんて言って枕も持ってきてないくせに床なんかで寝始めるもんで見てみたら凄く頭が痛そうだったので仕方なくどうせベッド広いから一緒に寝てもいいって言ったらですね最近こそ慣れましたけど最初の頃なんて同じ布団でやけにモゾモゾ動いてきて私がなかなか落ち着いて寝られな」 「莉沙ー?りさちゃーん?」 もはやついていけなくなった檎香がたまらず制止した。 「はい?」莉沙は唐突に我に返ったかと思うと、何やら頭を抱える。「……うう、喋りすぎて酸素が」 檎香は別の意味で頭を抱えたのかと思ったのだが、そうではなかったようで拍子抜けしてしまった。 「えーと……みさきちとうまくいってるのはよく分かったから」 「へ、そんな話してましたっけ?」 「これからもお幸せにねっ」 「何言ってるんですか、もう!」 丁度その時、ピー、という電子音が部屋に鳴り響いた。 カップケーキが焼き上がった事を知らせる音である。 更に、ガラガラという音と共にベランダの戸が開く。 「あ、良い匂いがするー」 「莉沙、もしかして熱でも出た?顔がゆでだこみたいになってるけど」 「寝ます!私、もう寝ます!具合悪いんで!」 「何よそれ!」 ◆ ◆ ◆ 奇妙な再会を果たした幼馴染み4人。 そこにはそれぞれの生活があり、人間関係がある。 それは明日も明後日も、これからも続いてゆくことだろう。 彼女達の話はここで終わる。 しかし忘れないでほしい。 我々の知るこの現代に、存在したかもしれない彼女達の一幕を。 何時か誰かに語り継ぐために。 おわり。