世界樹の迷宮Ⅳ 伝承の巨神 ルーンマスター1人旅の記録

白色の幻影

私はいま尿意を我慢しています。

どうしてそんな事になったのか?原因を一言で挙げるならお酒のせいではないかと思います。
世の中にはお酒を飲んだ事を免罪符にしてあくじの限りを尽くすような人もいるようなのですが私にはとても真似できそうにありません。
お酒を飲んだ結果たがが外れて気が大きくなったりしてそういった行為に走る話なら本でも読んだ事がありますし実際に酒場でそのような現場を観た事はあります。
ですが私は今の所ここ数時間の全てを連続した記憶として保っていますし理性も残っているどころかむしろかろうじて残った理性で何とか生きながらえているという状態です。
今この瞬間だけは酒で理性を投げ捨てられる方が羨ましく思えてきますね。
さて何故お酒を飲み始めたのかといいますとそれにはまず数時間ほど前にさかのぼる必要があります。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

独特の浮遊感と共に意識を取り戻す。
念のため辺りを見回してみると、そこはいつもの宿屋の一室だった。
備え付けの時計の針は、朝の7時を指している。
服はひどく汚れていてところどころ破けていたり、全身がべとべとしているしで大変な事になっている。
こんな状態で宿屋で目覚める原因は、私にとっては一つしかない。
今回もあの蟲を倒しきる前に、哲学兵装の効果が発動したのだ。
蟲というのは、かつての帝国が秘密裏に作っていたという……世界樹を喰らう存在。
この蟲を放置した結果何が起こるのか私にはよく分からないし、何かが起こったとしても私はとっくにこの地を離れていて、関係の無い事なのかもしれない。
それでも私は、このタルシスに眠る謎の全て解き明かしたいという一心で、図鑑の最後を埋める存在である「蟲」に挑戦していた。
確証なんてどこにもないけれど、それで私自身が変われるなら―――声を取り戻せるなら―――と思って。

服を着替える。
先程まで着ていたものは、脱いでみると改めて分かるのだけど損傷がひどく、もう修繕のしようもないので流石に廃棄することに決めた。
これで替えの服が無くなってしまったので、また作るまではしばらく蟲とは戦えそうにない。
部屋に据え置きの棚から、買い込んでいた服の生地を取り出し、裁縫セットを隣に置いて恒例の裁縫タイムに入ることに。
自慢するわけではないけれど、経済的にはそこそこ―――と私は思っている―――余裕があるし、これから作ろうとしている服だって普通にお店で買っても大した痛手ではない。
それでもこんな事をしている理由は簡単。
無駄遣いしないのがお金持ちがお金持ちたる所以だから。
いつか読んだ本の受け売りなのだけど。
それに裁縫は楽しい。オリジナルのものに一手間加えて、新鮮な気分で過ごすことができる。
何かを生み出せるというのは、与えられてばかりだった時よりも、ずっと楽しい事だ。

せっせと縫い物を進めていた私がそれに気付いたのは、作業を始めて1時間ほど経った頃だった。
窓の外にぷかぷかと浮かんでいる、ふわふわとした白いもの。
あれにプーカと最初に名付けたのが誰なのかは分からないけれど、もし名乗り出てきたのなら私は辞書を駆使して出来る限りの賞賛の言葉を送りたいと思っているくらい。
ぷかぷか浮いているからプーカだと、そう名付けるのにどれだけの勇気が必要だったのかと。
これだけだとまるで馬鹿にしているみたいだけど、もちろん理由はそれだけではない。
今まで冒険とは無縁の生活を送っていた私のような人でも、簡単に理解できる名前をつけてくれた、というのは素直に嬉しい事だ。
そんなプーカにも赤とか虹とか色々と亜種がいるのだけど、いま私の目に映っているのは単にプーカと呼ばれているものだ。
あれはちょっと短剣でつついてやると、どういうわけか本……というか大きさ的には豆本の形に姿を変える、面白い生き物。
形が形だけにちょっと勇気がいるんだけど、それを飲み込むとプーカの種類によって身体に色々な効果をもたらすとされている。
本の形をしている事もあって、それは通称・宝典と呼ばれている。
そんなものを食べるなんて不思議な話だけど、樹海磁軸と同じで特に害はないからありがたく使っていこう、というのが統治院や冒険者ギルドでの見解らしい。
前に一度何が書いてあるのか気になって中身を読もうとしたのだけど……爪先を使ってページを開こうとした瞬間、それはまるで生まれる前から定められたかのようにするりと手を抜け私の口の中に入っていってからは、そういうものだと考える事にした。
宝典を最初に口に入れた人も、きっと同じような体験をしたのだと思う。

平和を謳歌するように空中散歩を続ける、白いプーカ。
あれは最終的に「体の宝典」へと姿を変えるようになっている。それが自然の摂理であるかのように。
体の宝典は、摂ると体付きがよくなるようで、そう呼ばれているのだけど……ここまで考えたところで、休憩を終えて縫い物を再開しようとした私の手が止まった。
体の宝典で体力をつければ、件の蟲の攻撃を受けても少しは耐えられるんじゃないか、と思ったからだ。
プーカ相手なら、予備の服を作っていなくても大丈夫。今すぐにでも出発できる。
すぐさま私は手にした道具を裁縫箱に戻し、代わりにいつものバックパックを背負ってタルシスの街へと飛び出した。
宝典を満載して帰る事を考えながら。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

宝典とは一体どんな味がするのか、酒場で初めてその存在を聞いた時に考えてみた事がある。
今でこそ慣れてしまったけれど、宝典の味について考えるという行為が当時はえらく滑稽な事に感じられた。
宝典といえば普通であれば読む方の本の事を指す。
あまり世間を知らない私ですらそう思えるくらい、宝典を食べる描写のある話に出会ったためしがない。
もしかして、宝典と聞いて「食べると健康に良いもの」が思い浮かぶのは、冒険者くらいなのかも。
それはともかく、いま私は考えの甘さを噛みしめていた。
結局手にすることができたのは、体の宝典1つだけ。
青空の下、風馳ノ草原を気球艇に乗って2時間ほど彷徨ってみたものの、2体目のプーカに出会うことはなかった。
確かに今まで大空を彷徨っていた(ふたこぶダチョウを探したりとか)事は何度もあったけど、あのぷかぷかと跳び回る物体を見かける事は稀だったように思う。
最初の1体はたまたまものすごく運よく見かけただけであって、そうそう出会えるものではないのかもしれない。
まぁ、収獲は収獲。
私は手にしたばかりの白い豆本を口に含み、そのまま飲み込んだ。
…………。
うん。無味無臭。
次は味付きがいいなぁ。

気球艇を泊め、タルシスの街に戻ってきた私は、朝に放り出したままだった縫い物を再開しようと宿へ向かっていた。
作業を放り出して衝動的に飛び出してしまったけれど、これは結果的に正解だったように思う。
ここまで珍しい存在なのだから、見かけ次第全ての作業を中断してでも取りに行く価値があろうというもの。
それに、もしかしたらまた黙々と作業をしていてふと窓の外を見ると……なんて事もあるかもしれないし。
そういえば以前、世の中は得てして狙ったものが手に入らないものだと本で読んだ事もある。
なかなかうまくいかずにもどかしい思いをするのもまた一興、と。
そんな事を考えつつ、踊る孔雀亭の前を通り過ぎようとしたところで。
喉が、渇いた。
思えば、さっきは慌てて飛び出したものだから、ろくに飲み物も用意せずに出発してしまった。
最低限の水(遭難時に利用できるものらしい)が気球艇に備え付けられているのだけど、あれも全部料理に使ってしまったし……。
黄金ガチョウ、久々に食べたけどやっぱりおいしかった。

そういうわけで踊る孔雀亭にやってきた。
昼時にも関わらずお客さんは大勢いて、みんな賑やかに話しながら食事を楽しんでいる。
酒場の喧騒は、自分の声が出ない事を一時的に忘れさせてくれるから、嫌いではない。
それに、一見怖そうな人でもよくしてくれるし、人は見た目じゃないという事を実感する。
「よう、巨神狩りのお嬢さん」と、声を掛けてくれる常連の人達。
その呼び方は何か恥ずかしいので出来ればやめて欲しいのだけど、こういうのをやんわりと文字で表現するのって難しい。
単にその呼び方はやめてください、と書いた紙を渡すだけでは、お互い気まずい思いをしてしまうのではないかと。
それとも「貴方に対して強い嫌悪感を抱いているわけではありませんが、その呼び方は私の羞恥心をかき立てるので今後はどうかおやめください」と書けば伝わってくれるのか。
それはそれで気を遣わせてしまいそうで、実行に踏み切れずにいるのだった。
他人に気持ちを伝えるのに必要な表情と声、私はその片方が足りないのだから、仕方のないこと。
ちょっと我慢すれば済む話だし。

「いらっしゃい。何にする?」と酒場のマスターがメニューを差し出しながら聞いてくる。
ついさっき、ちょっと早い昼食がてら黄金ガチョウを食べたばかりの私は、特にお腹が空いているわけではない。
目は自然と飲み物一覧の文字を追っていた。
まだ頼んだことのないものといえば……これだ。
私はあまり見かけない品名の飲み物を指し、マスターに見せると、彼女は戸惑うような顔で問いかけてきた。
「それ、お酒だけど……この時間から大丈夫なの?」
お酒。
飲むと楽しくなるけれど、ほどほどが大事だと言われている飲み物、という程度の知識はある。
それを飲んでいる人なら、今この瞬間にも酒場にいる。
何しろ酒場の酒という字はお酒の酒から来ているし、酒場というからにはお酒を飲む場所なのだ。
彼らを見る限り、たまーに変な行動をし始める人がいることにはいるものの、それ以外の場合だと顔を赤らめて饒舌になったり普段泣かないような人が泣いたりとか。
別の自分に出会える飲み物なのだと勝手に思ってきた。
でも、そう思っていただけで今まで自分で飲んでみたことはなかった。
私はマスターに向かって、力強く頷いてみせた。
「あら、何か嫌な事でもあったの?いま用意するわ」
はて。
この時間からお酒を頼むという行為には、私の知らない意図が含まれているのかもしれない。
もちろん、別に嫌な事があったわけではない。ちょっと期待通りにいかなかっただけで。
今のやりとりを聞いたのか、「おっどうしたお嬢さん。俺でよければ相談に乗るぜ!」「酔っ払いが何言ってんだ」「お前もじゃねーか」などとがやがや騒ぎ立てる、常連のみなさん。
とりあえず愛想笑い(顔だけ)でもしておこう……。

マスターが酒を用意している間、手持ち無沙汰になった私は適当に辺りを見回していたのだけど……ふと、依頼掲示板に目が留まった。
今日も色々な依頼が貼られていて、見ていて飽きない。
私も、これまでにいくつもの依頼をこなしてきた。
たまに報酬で珍しいものを貰えたりもするし。
そうそう、冒険者ではない人からの依頼の方が面白かったりして、例えば化石を調べた時なんか……。
あれ。
そういえば、依頼って冒険者でも出せるものなんだ。
そんな簡単な事に今更気がついた。
「はい、どうぞ」と、マスターがなだらかな曲線の形状をしたグラスを差し出してきた。
濃い紫色をした液体が、グラスの半分くらいまで注がれている。
それを受け取った私は、すかさず身振り手振りでマスターを呼ぶと、用件を紙に書き始めた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「ど、どうも初めまして」
「どーも」
土気の針は1時を指している。もちろん、午後だ。
テーブル席に座り直した私は、同い年くらいの男女2人と向かい合っていた。
男性としては長めの灰色の髪が印象的な彼は、どういうわけか私を見て少し緊張している様子。
私はそんなに物騒な格好はしてないと思うのだけど……思い当たる事はない。
でも彼の緊張した様子を見ると逆に私が安心してしまって、この人とは話がしやすそうだと思った。
一方で、彼の隣に腰掛けている金髪でつり目の彼女は、ちょっと苦手かもしれない。
理由は分からないけど、あからさまに私を敵視しているような……敵視は大袈裟か。
とはいえ、彼女からはあまりよく思われていないような、そんな気配を肌で感じる。
幸か不幸か、この手の人には今まで数える事しか会ったことがない。
そういう人は、私が筆談を始めるとそれだけで文句を言い始める傾向があって、そこを突かれると私はもうどうしようもなくて。
でも、この2人は私が初めて出した「依頼」を受けて来てくれた人達。
説明は基本的に筆談で行う事になる、というのは依頼書に予め記載しているし……変な人じゃないといいのだけど。

「体の宝典を集めてくればいいんだね?」
私が出した依頼はすごくシンプルなものだ。
体の宝典を集めてくること。1つあたり10万enで、最大9個まで買い取る、と。
報酬がよかったのかタイミングが良かったのか、依頼を受けてくれる人はすぐに現れたのだった。
彼の問いかけに対し、私はこくりと頷く。
…………。
例えば以前、愛妻弁当を届けて欲しいという依頼があったのだけど、ああいう依頼は依頼主から色々と聞く必要が出てくる。
今回私が出した依頼は、本当にシンプルなものなので、「体の宝典を集めるんですね」「はい」で話が終わってしまうのだ。
これで、じゃあ早速行ってきます、と言って去って行くなら良かったのだけど。
よろしくお願いします、とでも書こうかなとペンを取り出したところで、灰髪の彼は間を持たせる為なのかこんな事を言ってきた。
「体の宝典って確か、体付きがよくなるんですよね!」
冒険者の間ではそう認識されている。
ちなみに効果の程はさほどでもないようで、巷では力の宝典や知の宝典の方が重宝される傾向にあるらしい。
今思えば、私があっさり体の宝典を手に入れる事ができたのも、力の宝典や知の宝典と比べて需要が少ないからだろう。
たとえあまり効果がないとしても、少しでも身体を強くしておきたいと思っている私は珍しいようだ。
ともあれ、彼の言う事に間違いはないので、私は頷いた。
すると、さっきから窓側を向きつつ横目でちらちらと私と彼の様子を伺っていたつり目の彼女が急にテーブルに両手をついて乗り出してきたものだから、びっくりして軽く仰け反ってしまう。
「オマエ、そんなカラダしときながら何が体の宝典が欲しいだ!」
え。
急に怒鳴りつけられる私。
「オレへのあてつけか!?あてつけなのかコラ!!!」
え?何?どうして?
何か逆鱗に触れるような事をした?
賑やかな酒場は一瞬で静まり返り、周りの視線が一気に私の方へ向くのを感じる。
分からない。
わからない。何で?
肩を掴まれ、鬼気迫る顔で色々と言ってくるものの、何がなんだか分からず頭に入ってこない。
あまりのどうしようもなさに、我慢していた涙がじわじわと溢れ、視界がぼやける。
灰髪の彼は私と彼女を交互に見ながら「ベネラ!!落ち着いて!!!」と叫んでいる。
唐突に、掴まれていた肩を解放される。
私は、椅子に背もたれがなかったら頭から床にぶつけていたのかもしれないと思うくらいの勢いで、へたりこんでしまった。
こんなところでみっともない……と思って手で涙を拭っていたら。
「その……わ、悪かった、よ。ごめん」
彼女はとてもおろおろした様子で、頭を下げながらそう呟いた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

結局、依頼はそのまま先程の2人のギルドに頼む事になった。
正直なところ、遠慮しようかなぁとも思ったのだけど、気の利いた一言が思いつかなかったのと。
「そ、それじゃあすぐに集めてきますので!ほら、行くよ!」
と言い残して素早く去っていってしまったので、断れなかったからだ。
とりあえず、体の宝典さえ集まればいい。
最初に頼んだ飲み物―――というか、酒―――はとっくに飲み終わっていた私は、2つ目に頼んだ深紅の酒も飲み終わり、次に飲むものを選んでいるところだった。
今まで飲んだ2つのお酒はどちらも渋さと甘さが混じったようなもので、嫌いではないけど1回飲んだらもういいかなぁ、といったところ。
今度こそ甘いものを引きたいところ。
メニューに甘いとか苦いとか、書いてあればいいのに、書いてないから色々試してみるしかないのだ。
マスターに訊ねてみてもいいのだけど、せっかくだから色々経験しておきたいし。
「次はこれね。それにしてもあなた、もう2杯飲んでるけど随分ケロッとしてるわねぇ」
そう言われて初めて、私はどうやら「酒に強い体質」なのだと気付く。
飲み物を飲んでいるはずなのに相変わらず喉が渇いたままなのが、不思議だった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

辺りはすっかり暗くなり、時間はもう午後6時を過ぎたところだ。
これくらいの時間になると、樹海帰りの冒険者達が各々の目的で―――依頼の報告や、夕飯などなど―――酒場を訪れるようになる。
ここは3時くらいが一番人が少ない。というか、静か。
まっとうな冒険者なら、それくらいの時間は樹海の探索真っ最中だし、お昼から飲んでいた人達の半数以上はテーブルに突っ伏して寝ているからだ。
そんな人々に対し、マスターが迷惑そうな顔で「お早くお帰り下さい」と言って回っていたのが印象的だった。
4時を回ると、哲学兵装の効果が発動したときの私のような、ボロ雑巾みたいな状態で帰ってきた冒険者達がちらほらと。
あのギルドでは今晩、アリアドネの糸を買っておいた人が救世主みたいな扱いをされているんだと思う。
ちなみにまっとうな冒険者とは何なのかと言えば……その定義は人によるとは思うのだけど、少なくともいまの私のように昼からずっとお酒を飲みながら酒場の光景を眺めている人は含まれないだろう。
この酒場は結構人が入れ替わっているので、私が昼から数えて―――10から数えるのをやめてしまったからよく分からないけど―――とにかくたくさんの酒を飲んだ事を知っているのは、マスターくらいなものだ。
なんでずっと酒場にいるのかって?
だって、私が酒場を出た1分後に、さっきの2人組が報告しにくるかもしれないし……。

次に飲むお酒を決めてメニューを指した時、「ねえ、本当に大丈夫?お代の心配はしているわけじゃないけど」とマスターが小声で伝えてくれたのは、彼女なりの気遣いなのだと思う。
お酒をたくさん飲む人というのは、世間的にはあまり良いイメージをもたれないものらしい。
私が既にメニューの半分以上のお酒を制覇している事を、周りの客に悟らせない為に、わざわざ小声で伝えてくれたのだ。
素敵な気配り。
なんでそんなにお酒を飲んでいるかって?
飲んでないと間が持たないからに決まってる。
大丈夫かどうかと言われれば、ちょっとした変化は起きているのだけど……とりあえず私は大丈夫だと意思表示すべく、頷いておいた。
「もう酔っ払ってるとかじゃなくて?酔っ払いほど大丈夫だなんて言うのよ」と念を押してくるので、私は余程の量を飲んでいるのだろう。
私がもう一度強く頷くと、「ならいいけど……二日酔いになっても知らないわよ?」と釈然としなさそうな顔をしながらお酒の準備を始めた。
二日酔いというのはよく分からないけど、文字通りに考えるなら二日後に「酔い」というものが回ってくるとか?
私は、お酒がくるまでの間にお手洗いへと向かった。
ちょっとした変化とはこれのこと。どういうわけか、お手洗いに行く頻度が普段の何倍にも増えているのだ。
確かに、ひたすら飲み物を飲んでいるんだから当然とはいえ……こんなにすぐに行きたくなるなんて。
一箇所しかないお手洗いの扉を開こうとするんだけど、なぜか開かなかった。
……なぜかも何も誰かが入っているだけなんだけど、今まで当然のように開く事ができたはずなのに。
冒険を始めたばかりの時によくしてくれたあの人が敵として立ち塞がった時のような、途方もない絶望感を覚えた。

仕方なくカウンターの席に戻ると、先程頼んでいたお酒が置かれていた。
結構な量が入っているんだけど、私は今お手洗いに行きたい。
カウンター席の椅子というのは、どうしてこうお尻に負担が掛かるようになっているのか。
立っていた方がまだ、お尻の負担が軽減できてマシなのではないかという考えが頭をよぎる。
でもカウンターで立ちっぱなしは目立つし、不自然極まりないので、却下。
素直に座ったままお手洗いが空くのを待つことにした。
すると、マスターが訝しげに問いかけてきた。
「やっぱり体調悪いんじゃない?そんなに飲んでたら流石に……」
違う。そうじゃない。
いまお手洗いを待っているから飲んでないだけで、ちゃんとすっきりした後で飲むから待って。
なんて、恥ずかしくてとてもじゃないけど文字にできない私は。
グラスを手にとり、それを飲むことでしか、体調の良さを主張する事はできなかった。

それからまたお手洗いの方を見に行ってみたのですがまだ扉は閉まったままでした。
体感では30分くらいは経ったと思っていたのですが冷静になって考えてみると、待っている時というのは長く感じられるものらしいので実際には5分くらいかもしれません。
というか5分だとしても5分も同じ人が私の安息が得られる地を占拠しているというのはどう考えてもおかしな話ですので、きっと私がさっき扉を去ってから1分後くらいに入れ替わるような形で他の人が入っていったのだと考えるのが妥当でしょう。
そもそもこのカウンターの席からお手洗いの扉を開いたかどうか確認できないのが問題なのですが、これを解決するためにはお手洗いの前で待機するしかないんですね。
それはなんというか流石にあまりにみっともないというかお手洗いに一番近いテーブルに居る人達から変な視線を浴びせられそうで、それはそれでちょっとわくわくしてしまいそうなんですが今の状態であまり興奮すると色々あれでまずいんです。
ところであの2人組はすぐに宝典を取ってくると言っていましたがすぐというのはどれくらいなのか今更ながら気がかりになってきました。
すぐに取ってくると言っていたのは灰髪の彼だけだったし実はあの後パーティメンバーで揉めてさっき私を怒鳴りつけてきたあの子が「あんな尿意我慢してそうなやつの依頼なんて後回しで大丈夫だから」と言ったがためにすごく時間が掛かっているという可能性があるんですが、あの人はどうして私がいま尿意を我慢しているのを知っているのでしょうか?
それを考えるとちょっと冷や汗が出てきて寒気もしてきましたがこの寒気はもっと別のところから来ている気もします。
そしてこういう状況に陥って初めて気付いたのですが神様に祈りたい気分のときって自然と思考までもが敬語になるものなんですね。
人は極限まで尿意を我慢することで神様との対話を果たせるのだと思いました。

それからさらに1時間たち(あくまで体感なのでもしかしたら実際は10分くらいなのかもしれませんが私にとっては絶対に確実に偽りなく1時間たっているのです)その間に3回ほどお手洗いと席をおうふくしたものの扉は開かなかったのでもう恥も外聞もなくお手洗いの前で待ちつづけると決めました。
ここなら扉が開いたしゅんかんを狙って飛び込むことができますが飛び込んだ衝撃で大変な事になってしまうという事も考えられるのであくまでもへいせいを装いつつ慎重に入っていこうと思います。
実はさっきお手洗いの前で待っていようと決めたとたんに勢いよく立ち上がって歩き出そうとしたら別の事を同時にやろうとしたのがわざわいしたのか脚が交差して思い切りつまずいてしまったのですがその時の衝撃でいわゆる尿意の波というのがおしよせ始めまして痛さではなく尿意のせいでうずくまったままうごけなくなってしまったのですけどそうなると周りの人ってみんなやさしいですから何人が近くにきて私の事を起こそうとしてくれて本当に今だけはやめてって思いましたが尿意をがまんしている事を悟られたくなかったので気合で起き上がったのでした。
そんなことを経て今お手洗いの扉の前で一体どのようなポーズを取れば最もこうりつ的に迫り来る尿意を抑える事ができるのかを模索するべく近くにある観葉しょくぶつの影にかくれて他のお客さんから見えにくいように工夫しながら色んなポーズを取っていたのですがちっとも効果がないどころか手足を動かしたのはかえってぎゃく効果だったみたいで更なる尿意の波がおそいかかってきたのですがそれが分かっただけで私は尿意我慢のたんきゅう者へとまた一歩近付いた事を確信しました。
さっきまでいろんなポーズを取る事にむちゅうになっていて気付かなかったのですけどいま冷静に下を向いてなるべく手も脚も動かさないようにじっとしていたらなんだか下着の感触にいわかんがある事に気付きましてこれってもしかしたらちょっと出てしまったのかもしれませんがまだ決壊はしていないので私は安心をしてはいけないここで安心して力を抜いてはだめ。
こういうのって一度気がついてしまうとだんだんと気持ちわるくなってくるもので早めに何とかしないといけないとは思うのですがそのためには下着を下ろさないといけないので流石にそれをここでやるのはいくらかんよう植物の裏で隠れているとはいえ1人か2人くらいかには見られてしまってよくない事だとは思うものの正直なところ今のかんしょくを我慢するくらいなら1人や2人に私が下着を下ろすしゅんかんを見られてもいいような気さえしてきてだって別にちょっと降ろすだけなので下着が見えるわけじゃないですし今から下着を下ろす事でお手洗いに入った後の手間がすこしばかり省けるという利点もあるしそもそも下着の下って字は下ろすの下じゃないですか?下ろす。

あぁ、この瞬間の私は本当に自分の事しか考えていなかったんですね。
なるべく表情を見られないように俯いていたせいか、お手洗いの扉が開いて人が出てきた事に気付かなかったし、私のすぐ後ろまで人が近付いてきている事にさえ気付きませんでした。
「こんな所に居たのか。お望みの品、持ってきてやったぞ、っと!」
悪気はなかったのだと思います。
でも彼女がほんのスキンシップのつもりで行ったのであろう、私の腋の下に指を差し込むという行為は、我慢していたものを決壊させるのに十分すぎるほどの刺激だったのでした。
全身がびくんと跳ねて、力が抜けて尻餅をつくと共に、下半身が生温かいモノの感触に包まれていくのを感じます。
服のおかげでソレが辺りに広がることはなかったのですが、服の下から漂う湯気・そして臭いが容赦なく存在感を主張していて。
もうだめ。私の冒険はここで終わり。
今すぐにでも死んでしまいたい―――

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

独特の浮遊感と共に意識を取り戻す。
念のため辺りを見回してみると、そこはいつもの宿屋の一室だった。
備え付けの時計の針は、朝の7時を指している。
服は……下半身全域が湿っていて、いやな感じの臭いが漂っているし、とにかく早く着替えたい気分。
……。
…………。
どうやらこの哲学兵装、死ぬほど恥ずかしい思いをした場合でも、効果があるみたい。
そんなこと初めて知った。
本当に、この街に来てから毎日が発見ばかりだ。
私は大きな溜息をついた。
それにしてもこの頭の痛さは何?
もしかしたら、これがいわゆる二日酔いなのかもしれない。

諸々の後始末を終え、ふと窓の外を見てみると。
そこにいたのは、青空の下で浮かぶ、ふわふわとした白いものだった。
―――いまは、もうちょっとだけ寝かせて……。